松本亀次郎 その2

2011年11月22日更新

教師の道を歩む がんばれカメベン先生

小学校教育に励む20代

師範学校に入学したころの松本亀次郎の肖像
師範学校に入学したころの松本亀次郎

静岡師範学校を6番目の好成績で卒業した松本亀次郎は、明治21年(1888年)、静岡高等小学校に赴任しました。いよいよ本格的に教師の道を歩み出したのです。
しかし、亀次郎はさらなる高みを求め、教師としての最高学府である東京高等師範学校(筑波大学)進学を目指します。そして、1年半の間、教師をしながら勉強に打ち込み、見事入学を果たします。ところが、あまりの猛勉強と貧しさからの粗食がたたり、脚気になってしまい、退学を余儀なくされました。

静岡に戻った亀次郎は、明治23年(1890年)、静岡小学校東部分校(静岡市清水区:後に東有度(ひがしうど)高等小学校)の創立に関わり、教師に復職しましたが、実は高等師範学校進学の夢を捨てられず、明治24年(1891年)の夏休み中に、東京の明治義会の講習会に参加するなど、勉強を続けていました。
教え子たちは、そんな亀次郎を慕い、「亀勉(かめべん)先生」とあだ名を付けました。東京で勉強に励む亀次郎に、教え子たちが送った応援の手紙が残されています。12歳か13歳の少年少女が書いたものですが、いずれも堂々とした内容で、当時の学習のレベルの高さがうかがえます。この手紙を読んだ亀次郎は、きっと胸を熱くしたことでしょう。

かわいい教え子たちに、その魂をすっかり奪われていた亀次郎は、きっぱりと高等師範をあきらめ、教師に専念する道を選びました。決して怒らなかったという亀次郎は、生徒はもとより親からの信頼も厚かったようです。そして、静岡県有度郡有度高等小学校(静岡市清水区)、榛原郡川崎町川崎尋常高等小学校(牧之原市)で校長を勤めるなど、教師として実績を重ねていきました。

明治30年(1897)、31歳の亀次郎は、難関である、尋常師範学校・尋常小学校・高等女学校国語科教員の検定試験に見事合格し、中等教員免許を受けました。そして、母校の静岡県尋常師範学校から三重県尋常師範学校、佐賀県尋常師範学校の国語科教諭を歴任しました。
亀次郎が佐賀県師範学校に勤めているとき、佐賀県教育会から佐賀県方言辞典の編集を、佐賀中学校教諭の清水平一郎とともに頼まれました。明治35年(1902年)に出版されたこの佐賀県方言辞典は、日本で最初の方言辞典です。亀次郎は、若いときから語学に興味があり、国文法・古典の勉強に力を入れていました。また、古今集の音韻研究をするなど、言語学の力が認められていたのです。

そして、この方言辞典編集の仕事をしたことが、後に中国人留学生の教育に飛び込んでいくきっかけになるのです。

 

日本で最初の方言辞典出版
日本で最初の方言辞典出版
明治35年(1902年)、佐賀県師範学校教師時代に、
清水平一郎とともに出版した、佐賀県方言辞典の原稿

教え子たちからの手紙
東京で勉学に励む亀次郎に 教え子たちが送った応援の手紙

 

松本亀次郎 活動の時代

松本亀次郎 活動の時代
1888年(明治21年)静岡高等小学校に赴任。22歳。
1889年(明治22年)東海道鉄道開通、掛川駅できる。
静岡県有度高等小学校など、校長を歴任。
1894年(明治27年)日清戦争
1900年(明治33年) 吉岡彌生、東京女医学校を設立。
1902年(明治35年)日英同盟締結(ロンドン)
佐賀県方言辞典出版。36歳。

編集/大東図書館

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