岡田良一郎 その2

2011年11月24日更新

岡田良一郎が広めた報徳思想

二宮尊徳は、「人類を含めて万物は全て、天地より徳(才能、長所、美点、とりえ、力量)を与えられて生まれてくる。それゆえ、人間は徳をもって、徳に報いる事が大切であり、それが『報徳』である」と説きました。
報徳は4つの具体的な教えで構成され、岡田良一郎はその教えの大切さを全国行脚して説き、実践を広めていきました。

至誠(しせい)

誠のある生活をする。

勤労(きんろう)

自分の持つ徳を生かして働き、自他を豊かにする。

分度(ぶんど)

自分の徳をわきまえ、節度のある生活をする。

推譲(すいじょう)

分度のある生活をして、余財を蓄え、家族、子孫、社会のために譲る。

勤労 太陽の恵みのおかげで生かされている。それに報いるために一生懸命働くことが大事だと考えました。

分度 自分の適量を知り生活すれば安心。

全国の報徳運動の中心地に

明治8年、岡田佐平治(良一郎の父)は、遠江国(とおとうみのくに)報徳社(後の大日本報徳社の母体)を浜松に設立し、翌年、岡田良一郎が二代目の社長となりました。
道徳の裏付けのある経済活動を肯定し、精神的経済的な豊かさを育もうという、この優れた実践思想は、やがて、農村救済の枠を大きく越えて幅広い分野に浸透しました。渋沢栄一、安田善次郎、豊田佐吉、松下幸之助、土光(どこう)敏夫をはじめとする、多くの事業家たちにも多大な影響を与え、卓越した深遠な思想は今も脈々と社会に根付いています。

原書による英文や漢文を学ぶ私塾「冀北学舎(きほくがくしゃ)」を創立

明治10年(1877)西郷隆盛が西南戦争で戦っているころ、岡田良一郎は倉真村に、全寮制の「冀北学舎」という私塾を開きました。12歳から17歳の男子生徒を集め、朝4時から起き、ランプの光で読書をし、明るくなると舎内のふき掃除や母屋、便所、門の外、道路の掃除をしました。
学習では、英語力の向上に力をいれ、まだ明治政府が日本の教科書を整えていないこの時期に、スペリング、ウイルソンリーダ、パレー万国史などの原書を教科書として学びました。
カッケンボス米国史では、「1853年、夏、ペリーの艦隊が江戸湾に入った。彼の艦隊は日本の海に浮かんだ最初の艦隊になった」と記載されており、少年たちは、英語の教科書で米国史を勉強していました。この塾は、徴兵制や公立の中学(旧制)が新設されるなどの影響を受け、わずか7年で閉鎖されましたが、この7年間に152人の卒業生を送り出し、文部大臣岡田良平(良一郎の長男)、宮内大臣一木喜徳郎(良一郎の次男)、東京帝国大学教授山崎覚次郎など多くの優秀な人材が巣立っています。

カッケンボス「米国史」の写真
使われていた教科書
カッケンボス『米国史』

冀北学舎(きほくがくしゃ)の建物外観
現在は大日本報徳社内にある
冀北学舎(きほくがくしゃ)の建物

 

1854(16歳)

二宮塾へ入る

1868(30歳)

明治元年

1873(明治6年)

資産金貸付所設立

1875(37歳)

遠江国報徳社設立

1877(明治10年)

冀北学舎開設

1878(40歳)

掛川農学社を起こす

編集/大日本報徳社専務理事 宮川正夫 電話:0537-22-3016

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