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吉岡彌生(よしおかやよい) その3

更新日: 2011年11月25日
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東京女医学校を創設したころの彌生(明治33年)
東京女医学校を創設したころの彌生(明治33年)
 結婚して5年、彌生は夫・荒太のドイツ語学校の経営と、開業した病院「東京至誠(しせい)医院」で忙しい毎日を送っていました。そのような中、明治33年(1900)、母校の医学校「済生(さいせい)学舎」が、風紀を乱すという理由で女子の入学を認めなくなります。この知らせを聞いた彌生は、女性が医学を学ぶ道を絶ってはならないという使命感で、自ら立ち上がります。
 こうして29歳の時、現在の千代田区に「東京女医学校」(後の東京女子医科大学)の看板を掲げます。しかし学校とは名がついていましたが、自分の医院の一室に粗末な机と椅子を並べた教室で、生徒はたった4人からのスタートでした。荒太の助けや郷里の父の援助もあって、少しずつ学校の体裁をととのえ、生徒も徐々に増えていきました。そして開校してから7年後、明治41年(1908)に待望の医師が誕生します。彌生たちの努力が報われた瞬間でした。世間では、「女医の進出は女性の進歩の現れである」といった祝福の声がある一方、「結婚が遅れ、手術をして平気で血を流すような女が増えたら国が滅びる」といった女医亡国論も聞かれる、まだまだ風当たりの強い時代でした。
東京女医学校(明治39年)
東京女医学校(明治39年)

東京女子医学専門学校への昇格

 その後も次々に医師を輩出(はいしゅつ)していたやさき、新たな壁が立ちはだかります。医師法の改正により、大正3年(1914)以後は医師試験の受験資格として「医学専門学校の卒業生であること」が条件付けられました。それまで医師になりたければ試験を受けて合格すればよかったものが、医学専門学校卒業者でなければ受験すらできなくなってしまいます。彌生の学校も医学専門学校として認可を受けなければ、廃校の危機に陥ります。財政的にとても苦しい中、学校としての設備をととのえ、また教員の強化をはかるなど、厳しい認可基準をひとつひとつクリアしていきます。そして申請を出してから2年半後の明治45年(1912)、やっと認可がおり「東京女子医学専門学校」への昇格がかないます。彌生にとって、自分の医術開業試験前期試験の合格と、この専門学校の認可が、人生で最もうれしかったときでした。
レントゲン治療の様子(大正6年)
レントゲン治療の様子(大正6年)
明治33年(1900) 東京女医学校創立
明治35年(1902) 長男・博人を出産
明治45年(1912) 東京女子医学専門学校認可昇格
 市の図書館に、図書とDVDがあります。
東京女子医学専門学校の全景(昭和2年)
東京女子医学専門学校の全景(昭和2年)
編集/吉岡彌生記念館
写真/東京女子医科大学所蔵

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TEL: 0537-21-1157FAX: 0537-21-1172
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