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八木美穂(やぎよしほ) その2

2011年11月28日更新

万葉歌人・歌学者・歌指導者としての美穂

国学者で和歌を詠まない者は無く、彼らは学者であるとともに歌人でした。美穂も同様で、「中林詠草(ちゅうりんえいそう)」という歌集があります。
また、歌の詠み方を教える「歌麻那波之良(うたまなはしら)」、仮名遣いや音読について書いた「假字(かな)ぶくろ」のように、新たに歌を学ぶ人のための本も書いています。

年の端に咲き添う梅の花見れば憂き身の春も頼まれぞする

文化15年(1818年)正月、美穂の師夏目甕麿(なつめみかまろ)が詠んだ歌です。この後、甕麿は国学の本の出版を始めますが、費用は青梅を売って作りました。甕麿にはさぞ梅が頼もしく見えたことでしょう。
この翌年7月に美穂が入門します。

甕麿和歌(大東図書館寄託佐都加(さづか)文庫蔵)
甕麿和歌(大東図書館寄託佐都加(さづか)文庫蔵)

国学の道を歩む

文政2年(1819年)美穂20歳のとき、白須賀宿(湖西市)の夏目甕麿に入門します。甕麿は本居宣長の高弟の一人で、高名な国学者であるとともに、「鈴屋大人都日記(すずのやのうしみやこにっき)」、「万葉集遠江歌考(まんようしゅうとおとうみのうたこう)」などの国学の本の出版に力を入れた人でした。
入門後の美穂は甕麿のもとで教えを受けますが、美穂がすでにかなりの本を読み終えていることがわかると、「あとは栗田家か中山吉埴(よしはた)に本を借り学びなさい」と言われました。こうして美穂は生家に帰り、わからないことは手紙で教えを受けました。しかし、文政5年(1822年)、美穂23歳のとき、前年から旅に出ていた甕麿は、摂津国(大阪府)で池に映った月を取ろうとしておぼれて亡くなります。美穂が甕麿に学んだのは実質2年ほどでした。甕麿の亡き後、美穂は独学で国学を学びます。後に100冊近くに及ぶ著書も、このころから書き始めました。
特定の師にこそつきませんでしたが、石川依平をはじめ、中山吉埴、高林方朗(たかばやしみちあきら)、加納諸平(かのうもろひら)など、多くの国学者たちと親交を深めていきます。親交の場となったのは主に歌会の席で、当時和歌は非常に民衆化しており、冠婚葬祭に和歌は付きものでした。特に国学者の催す歌会、長寿の祝、先人の慰霊祭などは格好の機会でした。美穂の交友範囲は遠江だけでなく、伊勢の方まで及んでいました。
天保3年(1832年)には、自宅誦習庵(しょうしゅうあん)にて「誦習庵歌会」を始めました。これは歌会を主催できる実力を美穂が持ったことを意味しています。
その3年後、恩人の一人である中山吉埴が亡くなります。美穂の悲しみは大変深く、その悲しみや感謝を込めた歌が残されています。すでに栗田土満は美穂12歳のときに亡くなっているので、近隣の先人2人が失われました。しかし、見方を変えれば、依平、美穂がこの地方の国学を盛り上げていく時代になったと言えます。このとき、美穂36歳、依平は9歳年上の45歳でした。
天保8年(1837年)から、自宅で月次読書会「誦習会」を始め、門弟や近隣の者に学問を教えるようになりました。
これらにより、美穂の国学者としての地位は固められ、名声はいよいよ高くなっていきました。

誦習庵印・美穂印の本
誦習庵印・美穂印の本
(大東図書館蔵)

誦習庵印・美樹(息子)印の本
誦習庵印・美樹(息子)印の本
(大東図書館蔵)

 

編集 大東図書館

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