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高天神城に関する歴史について

2026年1月1日更新

高天神城とは

高天神城は、掛川市の中央に位置する小笠山から南東に張り出した、標高132mの鶴翁山に築かれた山城です。詳細な築城時期は不明ですが、少なくとも16世紀の初頭には今川氏の家臣である福島氏(くしまし)が城主であったことが明らかとなっています。その後、小笠原氏が城主となり、戦国時代の後半には遠江の覇権をかけて甲斐の武田氏と三河の徳川氏による激しい争奪戦が繰り広げられ、「高天神を制す者は遠江を制す」とうたわれました。
高天神城の構造は、中央に位置する井戸曲輪を挟んで東峰【本丸、御前曲輪、的場曲輪、三の丸】と西峰【西の丸、二の丸、堂の尾曲輪、井楼曲輪】に分けられ、それぞれ独立した曲輪群で構成されています。この東西の峰は、単独でも城として機能するつくりとなっており、俗に「一城別郭」と言われています。

高天神城に関する歴史年表

高天神城に関する歴史を年表にまとめました。特記事項には出典を明示しております。

歴史年表
年号 西暦   事項(特記事項には出典を付した)
     

築城年代は不明。

『高天神記』には、今川了俊が応永23(1416)年に築き、その後に、山内玄蕃正久通、福島佐渡守基正、福島上総介正成、小泉左近、浅羽弥九郎幸忠、金沢玄蕃正が順に高天神城に入ったという記述がある

永正10年 1513年 - これより以前、今川氏家臣の福島助左衛門尉助春が城主となる(『大福寺文書』)
大永元年 1521年 10月23日 福島氏、甲斐上条河原で討死(『妙法寺記』)
天文5年 1536年 6月10日 花倉の乱で、玄広恵探派の福島氏没落
小笠原春義(春儀・春茂)が高天神城に入るのはこの後と考えられる
天文11年 1542年 10月26日 小笠原春茂、華厳院に寄進状を出す(『華厳院文書』)
天文13年 1544年 7月1日 小笠原氏興(氏清)、華厳院に寄進状を出す(『華厳院文書』)
(高天神城主はこのころ春茂から氏興に交替した可能性がある)
永禄3年 1560年 5月19日 桶狭間の戦いで今川義元、織田信長に討たれる
従軍していた小笠原氏興は高天神城に敗走する
       
永禄7年 1564年 - この年、小笠原氏助(長忠・信興)、氏助のあとをついで城主となる(『高天神軍記』)
永禄8年 1565年 8月 徳川家康、小笠原氏助を調略する(『田原近郷闇書』)
永禄11年 1568年 12月 徳川家康、小笠原氏助を調略する(『浜松御在城記』)
永禄11年 1568年 12月13日 武田信玄、今川氏真を駿府今川館に攻める
徳川家康も遠江に侵入
永禄12年 1569年 1月から5月 徳川家康、今川氏真が逃げこんだ掛川城を攻める
小笠原氏助もこれに従軍する
永禄12年 1569年 11月5日 武田信玄、駿河攻略のため甲斐を出陣
元亀元年 1570年 1月下旬 武田信玄、駿河へ進攻し、花沢域を攻略する
元亀元年 1570年 5月14日 武田信玄、北条氏政・今川氏真と駿河吉原で戦う
元亀元年 1570年 6月28日 姉川の戦い
小笠原氏助、徳川軍の第二陣として戦功をあげる
元亀元年 1570年 10月 武田信玄の家臣の山県昌景、遠江をうかがう
元亀2年 1571年 3月5日 武田信玄、塩買坂に陣を張り、内藤昌豊に高天神域を攻めさせる
元亀2年 1571年 4月19日 武田信玄、三河足助城などを落とし、甲斐に兵を引く
元亀3年 1572年 10月3日 武田信玄、甲斐を出発
元亀3年 1572年 10月中旬 遠江に入った信玄、只来城、飯田城などを落とし、二俣城を攻める
元亀3年 1572年 12月22日 三方ヶ原の戦いで、徳川家康は武田信玄に大敗する
天正元年 1573年 4月12日 武田信玄、信濃の駒場で没する
天正2年 1574年 5月 武田勝頼が2万騎で来攻。惣勢山に本陣を置き、高天神城を包囲。
天正2年 1574年 5月28日 武田勝頼に攻められた高天神城は本曲輪・二の曲輪・三の曲輪を残すのみ(『真田文書』)
天正2年 1574年 6月10日 堂の尾曲輪も落ちる(『武州文書』)
天正2年 1574年 6月14日 織田信長が後詰のため、岐阜城を出発する(『信長公記』)
天正2年 1574年 6月17日 織田信長、三河吉田城に到着する(『信長公記』)
この日、高天神城開城
天正2年 1574年 6月25日 武田勝頼、高天神城に山県昌景を入れようとする(『甲斐稲葉文書』)
天正2年 1574年 8月1日 徳川家康、馬伏塚城を築き、大須賀康高を入れる
天正2年 1574年 - この年、城番として横田甚五郎尹松が高天神城に入る
天正3年 1575年 5月21日 長篠の戦いで武田勝頼、織田信長・徳川家康連合軍に敗れる
天正3年 1575年 10月23日 小笠原氏助の高天神関係の最終文書(『村松文書』)
このころ、小笠原氏助は高天神城を出た可能性が高い
天正5年 1577年 2月9日 岡部丹波守元信(真幸・長教・長保)、勝頼から遠江勝間田周辺において1500貫余を与えられる(『土佐国蠧簡集残薦所収文書』)
天正6年 1578年 7月3日

徳川家康、高天神城奪還のため、横須賀城を築城(『家忠日記』)

天正4年説もあり(『浜松御在城記』)

天正6年 1578年 10月8日 高天神籠城の武田軍、国安川辺で徳川軍と交戦
天正7年 1579年 6月14日 武田勝頼より岡部元信に高天神城の城番を命じる
(『土佐国蠧簡集残薦所収文書』)
天正8年 1580年 8月 岡部元信、高天神域に入り城番となる(『甲陽軍鑑伝解』)
天正8年 1580年 岡部元信、後詰の援軍を勝頼に要請する(『甲陽軍鑑』)
天正8年 1580年 9月 武田勝頬、甲斐で、高天神城に後詰をしないことを決める(『甲陽軍鑑』)
天正8年 1580年 - 徳川家康、高天神城包囲のための砦を築き、監視体制を強化する
天正9年 1581年 1月25日
以前
岡部元信、矢文で降伏の意向を徳川方に伝える(『水野文書』)
天正9年 1581年 3月22日 岡部元信を始めとする城内の軍勢が討ってでる。元信以下大半の城兵が戦死。
高天神城落城(『浜松御在城記』)
天正10年 1582年 2月29日 駿河江尻城主の穴山梅雪が徳川家康に降る
天正10年 1582年 3月11日 織田信長に攻められ、武田勝頼自刃し、武田氏滅亡する
天正10年 1582年 6月2日 織田信長、本能寺の変で明智光秀に殺される
天正18年 1590年 7月 元高天神城の城主小笠原氏助殺される(『浜松御在城記』)
享保9年 1724   高天神社が西峰の西の丸に遷宮される
元文2年 1737   本間惣兵衛、戦死した先祖の墓碑を建立する
昭和9年 1934   高天神城御前曲輪に地元有志が模擬天守(鶴翁閣)を建設
昭和31年 1956 10月17日 静岡県史跡に指定される
昭和45年 1970 1月20日 静岡県立自然公園に指定される
昭和50年 1975 10月16日 国史跡に指定される

高天神城に関する参考文献について

高天神城の歴史・構造、発掘調査成果がまとめられている参考文献を挙げておりますので、是非ご活用ください。

高天神城の歴史・構造について

高天神城跡の発掘調査成果について

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