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塩の道の歴史
 
古代人の移動とともに塩の道がつくられた
 
 四方を海に囲まれている日本列島では、塩の専売法が施行されるまで、各地の海辺で塩が作られていた。岩塩の乏しい我が国では、塩は海水より作るほかなかったのである。その塩は俵やかますに入れられ、そして人や馬や牛の背によって山の奥まで運ばれていった。
 
 言うまでもなく、我々人間が生活していく上で、塩は欠かすことのできないものである。したがって、どんな山深いところであってもそこに人間が住んでいれば、何としてでも塩を運びこむ必要があった。つまり、海から山へと通じる道は、多かれ少なかれ塩が運ばれていたはずである。すなわち、これらの道が「塩の道」であったといえる。
 
 塩の道は、始めから塩やその他の生活物資を運ぶために切り開かれたのではない。日本人のルーツには、南方より海流に乗ってやってきたという説や、中国大陸から渡来してきたなどの様々な説があるが、いずれにしても我々の祖先は海を渡って日本列島にやってきた。
 
 日本の海辺にたどり着いた古代人は、さらに豊かな資源、森という新天地を求めて内陸深く入っていく。この古代人の移動とともにつくられた道が、もっとも原始的な「塩の道」であったといえる。
 
支配の道よりずっと古い
 
 古代の日本列島が国家としての体裁を整えようとしていた時代、道は支配の道具として切り開かれていった。中央に従わない各地の豪族たちを征するため、権力と武力によって、強引に道を切り開いていったのである。いずれも中央から地方へ放射状に延び、海岸線に沿った、あるいは平行となるような、日本列島を縦横するルートであった。これらの多くは、東海道、東山道、山陽道などと称され、官道として整備し、今日の幹線道路とも重なっている。
 
 一方、海と山を結ぶ道は、古代人の移住とともに自然発生的に生じたものである。したがって、道としての歴史は、支配のための道よりずっと古いと想像される。それは生活のための道でもあり、塩をはじめ物資だけではなく、文化、信仰、生活習慣など様々な有形無形のものが運ばれ、一つの文化圏を形成していったといえる。
 
最も古く長い塩の道
 
 そうして日本各地には、海と山を結ぶ道が次々と開かれていった。これらは海岸部から生命維持に欠かせない塩を運んだことから「塩の道」と称された。その中で最も古く長い塩の道が、日本海沿岸の糸魚川から北アルプスを縫う千国街道・松本街道を南下して塩尻に達する「北塩ルート」と、相良から掛川を経て、秋葉街道に入り伊那街道を経由する道と南アルプスを縫う二つの道に分岐して塩尻に至る「南塩ルート」で構成される、総行程350kmの「塩の道」である。このルートは同時に日本列島のちょうど真ん中。統計138度線上を南北に走るフォッサマグナは中央構造線に沿って通じており、地質学的にもきわめて特異な部分を通過していることは興味深い。
 
 古代には、この道はヒスイや黒曜石の伝播の道であった。また近世に入ってから、秋葉信仰など山岳信仰の聖地に通じる道でもあり、戦国武将が率いる大軍が全国制覇を目指して動いた道でもある。さらに、産業道路としての塩の道であると同時に、舟運や鉄道が発達するまでは、生活物資が行き交う経済の道でもあった。
 
歴史と文化の道
 
 生活に根ざした道であったために、さまざまな歴史的遺構も数多く残されており、現在では「歴史と文化の道」としての価値もある。さまざまな伝統行事や、神社仏閣をはじめ常夜灯・道祖神、宿場などの遺構が、この道を訪れる人々を迎えてくれる。
 

かけがわ生涯学習街道塩の道設定調査提言書(企画・発行:掛川市商工観光課)より