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第411回 日本はすごい!

2013年2月22日更新

掛川市下水整備課長 栗田 稔

学生時代に学んだ建築学を通じて日本について考えてみました。まず、それなりの規模の構造物と言えば土木と建築ですが、決定的に違うのは、土木は外部から、建築は内部から作品を見ることだと思います。
日本の建築物と外国のそれも大きく異なります。しばらく前までの日本の建築物は木造が主でしたが、西欧では石造りが主流でした。これは、採取できる材料が異なるため当然なことですが、石造りは組石造(壁構造)であるがゆえに数階建の1階部分の壁の厚さは、それより上の階の石の重さに耐えるためにも数十センチメートルを必要とし、窓も小さくて薄暗く、間取りも制限されていたようです。
19世紀から20世紀は鉄などの構造材の研究、工法技術、空間論などが劇的に開花しました。これまで制限されていた建築を解放しようとした建築家として有名なのが、フランスのル・コルビジェ(1887年から1965年)、アメリカのフランク・ロイド・ライト(1867年から1959年)、ドイツのミース・ファン・デル・ローエ(1886年から1969年)で3大巨匠と言われています。

滝のように水が流れ落ちる落水荘の写真
落水荘(1935年)

まず、この組石造から脱皮しようとした建築家の一人がコルビジェです。彼は、ドミノシステムとモジュロールを考案し、従来の建築概念を一変させたと言われています。ドミノシステムとは、それまでの壁構造に対し「建物は、柱、梁、床で構成される」という理論、モジュロールとは「人体の寸法と黄金比率(身近では薄型テレビ画面の縦・横比率が近い)に基づいた建築」という理論で、自由な間取りと建築美を追求しました。代表的な作品はサヴォア邸です。当時の建築技法では画期的だったでしょうが、日本ではこれらのことは既に「実施済」でした。柱・梁工法は木造建築の地域では昔から採られていましたが、所謂「人体の寸法」については平安時代以前から日常のものとなっていました。具体的なものは「畳」です。「寝れば一畳、起きれば半畳」という諺があります。意味する事は少し違うとは思いますが、基本寸法として当時から馴染んでいたことは間違いないでしょう。コルビジェよりもずっと前から日本人は習得していました。
ライトは、それまでの新古典主義(荘重で崇高な建築様式)を排して自由、単純さを追求しました。住宅でパブリックスペースの代表といえば台所、食堂、居間で、当時の欧米では各室は明確に仕切られていましたが、彼はそれらの壁の多くを取り去りました。各室には独立した機能は持たせるが空間構成はシンプルで有機的に繋がっているべきだ、の発想です。現代のリビング・ダイニング・キッチン、L型間取りの先駆けです。以前から日本の建物は「自然」と繋がっており、空間も個々には区切られてはいませんでした。自然との接し方の具体的な手法としては、室内・外を繋ぐ縁側、深い庇下のぼんやりした空間、坪庭などが代表的です。また、田の字型の間取りでは障子戸が主役で、各室は仕切られているが開ければ一体的な空間が瞬時に創られます。彼は、来日した際には簡潔さと日本の美の典型である浮世絵に興味を持ち、多くの作品を持ち帰ったとされています。浮世絵と有機的建築、桂離宮とライトの落水荘、共通点は多いと思います。建築構造学にも長けた彼は、1956年に、マイル・ハイ・イリノイ計画を発表しました。高さ1609メートルの超高層ビルです。当時の摩天楼の代表はエンパイア・ステート・ビル(443メートル)ですが、その3倍以上の高さです。現在、世界で最も高い建物はドバイのブルジュ・タワー(828メートル)ですが、1マイルの高さを持つ建築計画が検討されているとも聞きます。建築意匠と構造学の天才のライトの夢もン年後には実現するのではないでしょうか。
ミースは、シンプルさを追求した建築家。超高層ビルも得意ですが、ファンズワース邸は秀逸です。その思想、シンプルゆえの端正さは桂離宮に通ずるものがあります。
巨匠3人について独断と偏見を交えて書きましたが、その思考やメモリアルな作品は少なからず日本の建築を一見しなければ誕生しなかったのではないかと思っているほどです。
全くの個人的見解ですが、我が国が持っている感性、技術は世界をリードするもので、やっぱり「日本はすごい!」。

 

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