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第413回 感動と悲しき定め

2013年3月8日更新

掛川市環境政策課長 榛村 吉宣

毎月のつつましき小遣いの中から積み立てた1年分を、残り少なくなった後ろ髪を引かれる思いで貯金をおろし、京都に一泊二日の行程で行って来ました。行ったお店は、山野にある草から野菜までをそれぞれが持つ味そのものは残し、「何これ」と思わせる料理法で食べさせてくれるのです。ある御方のご厚意により1年に一度連れて行ってもらっています。常には肉系、魚系、野菜系、何でも食べているお陰で、人からは、体型を見られながら「何で歩いているの?」(効果ないのに歩く必要あるの?というような鋭い目線を感じながら)と聞かれますが、健康やシェイプアップのためではなく、目標は一つ、何でも美味しく食べるために汗を人一倍搔いています。
このお店は、草食中心で食べている最中から体にいいような波長を感じ、それに加えて、「うまい」今で言えば「まいう~」で目からうろこ、目がとろんと至福を感じる美味しさです。もう少し、繊細な味覚が備わっていれば、丁寧に伝えられるのですが、思い描いて下さい。

京都で食べた山野の料理

お揚げを裏返した雪原から本物の土筆の芽。餡はエビイモに思いもよらぬ食材が・・・

美味しくて感動した食べ物を家族や友人を連れて食べに行き、連れて行った者たちは感動しているのに当の本人は、美味しさが半減して、同じ食べ物かと疑うことがあります。食べる回数が増せば増すほど普通の食べ物になります。このような経験はありませんか?このような味覚のシステム「人の悲しき定め」を神様は創造したもうたために、未来永劫続く欲望が発生したのか、私にはわかりませんが、答えを求めて背負って生きて行くほど体力もないので、本題に戻ります。
また逆に、子供の頃、食べられなかった、今では考えられませんが、魚系が全く駄目で特に青み魚は食べられず、小学校給食に出ると食べられずに給食時間中魚と格闘していました。これが、就職後に連れて行ってもらったお寿司屋さんでピンク色のしめ鯖をいただき、この一瞬からサバはもちろんですが、青み魚が食べられるようになりました。しかし、しめ鯖のあの一瞬の感動は蘇りません。悲しき定めです。
それが、このお店では、食材の料理法が石器時代からの積み上げてきた何万という調理法を縦横無尽に使いこなし、毎回「まいう~」で、今まで食べている食材なのに初めての食感なのです。1年分の貯金をはたいてもこれだけが唯一の楽しみで納得して帰ってくるのです。
うとうととそんなことをあたまのなかにおもいえがいていると(abさんご風)「かけがわ、かけがわ」のアナウンス。現実に戻されて、一段と大きくなったお腹をさすりながら、同じくお土産で丸く大きくなったかばんと共に掛川駅に降り立ちました。

JR掛川駅の外観の写真

掛川駅にはほっとさせる装いがあり、振り返る思い出や新しい物語がここから・・・

「掛川駅」

今は明るくなった駅。掛川駅に着くとほっと一息。もうずっと遠い昔、19歳の新たな旅立ち、東京のど真ん中での夢を描き、高校までの掛川の思い出は一掃し、一人でこれから生活していく心配事を心の片隅に追いやりながら思いっきり頭の中を空っぽに、浮き浮きと電車に乗り込んだ掛川駅。きっと誰かが柱の陰で涙していたのだろう?公式には見送りは無かったが親父・お袋の気持ちは心に届いていた。送りたかったのだろうが、来なくていいよという息子に合わせてくれた。気持ちを表には出さずにそっとしまっておいたのだろう。今にして思う。思いは宇宙のかなたにまで一瞬に飛ぶ。しかし、変われば変わるもので代が替わった私は息子の大学の入学式に参加していた。
東京に向かうときは掛川を早く去るのが嫌で、普通電車の乗り換え、乗り換えで行って、感受性の豊かな若者か、若かったから感受性が豊かだったのかわからないが、電車の車窓に変わる景色にその土地の持つ個性ある風情やそのまちの匂いを感じていた。それが楽しく新幹線に乗ろうとも思わなかった。街の景色も県を跨げば雰囲気が全く変った。東京に着いてしまえば東京の雰囲気に心変わりするのだが、掛川の思いに浸っていたかったのだろう。昭和40年代から50年頃であるが、掛川駅前は本屋、中華料理店、パチンコ店等が建ち並んで今よりも人の行き来が多かったように思う。なつかしく情景が浮かぶ。
歳をとったのだろう。ふとした瞬間に思い出がよぎる。話は長くなったが、木造駅舎が新たになった時には掛川駅物語を募集したらどうだろう、とふと思いながら家路に着いた。

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