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第425回 身近な土木遺産から学ぶこと

2013年5月31日更新

掛川市都市建設部付参与 佐藤 勝彦

大井川は、江戸時代に「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と謳われ、江戸時代には大井川に橋が掛けられていませんでした。明治9年(1875年)になって 木製の橋が架設されましたが、増水のたびに被害を受け、洪水のたびに流失していました。洪水に強い橋は地域住民の切望でした。待望の鉄橋「大井川橋」は4年の歳月を費やし、昭和3年(1928年)に完成しました。当時としては最先端の技術を用い戦前のプラットトラスの最大橋長を持つ橋で、橋脚にはアーチ状開口部を持つ切石積の橋脚です。鋼材の組み合わせの美しさと重厚な石積の橋脚が目を引く17径間、橋長1026メートルの橋です。平成15年には土木学会選奨の土木遺産に指定されています。
ここで大井川橋が当時のいかに優れた土木技術を集約して架けられた橋なのかを論ずることは、土木学会誌にお任せすることとし、大井川にそれまで何故まともな橋がなかったのかを調べてみました。
すると村松博氏の著した「大井川に橋がなかった理由」にめぐりあうことが出来ました。
ここでは、皆様に意外な見解があったことを紹介させていただきます。

山をバックに撮影した大井川橋の写真
大井川橋

大井川橋と書かれた石碑の画像
土木遺産認定石碑

 

江戸時代大井川には、どうして橋がなかったのでしょうか。
一般的に言われているのが、江戸を守るため、関所の役目をしていたということです。

しかし、江戸260年の間、江戸を守るだけの理由で橋が造られなかったとは考えにくい部分があります。江戸時代、大井川と同じように大きな河川を調べてみると、多摩川、矢作川には橋がありました。天竜川、富士川には橋がなく、船渡しで、大井川、安倍川には橋がなく、徒渡しでした。東海道には23橋もの橋が架橋されており、たとえば多摩川には六郷大橋がありました。幾度となく流されましたが、その度に橋を造り直していたようです。
それでは地勢的(川の勾配や水量)によるものでしょうか。これらの河川を事例に検証しますと、川の勾配と川の深さによって橋を掛けられるのか、徒渡しとなるか、船渡しとなるかが決まってきます。自然条件も橋を作らなかった大きな要因だったようです。

江戸時代前期に島田と金谷の両宿で川越しの人足とそれを束ねる組織と制度が整備され、彼らが独占的に川越し業務を行うことを幕府が認め保護しました。徒渡しは大きな収入があり、その一部を宿駅の運営に充てるためはな銭が広く行われ、幕府の交通政策を支える大きな財源の一つになっていました。幕末の最盛期には約千人もの徒渡し専門の人足が大井川で働き、家族を含めると約3千人もの人々が川越しという産業で生計を立てるという一大産業に発展していました。だから架橋が無理であってもせめて渡し船でもっと効率化を図ってほしいというような請願が出ても、幕府はうやむやに処理してしまいました。そうやって江戸時代260年にわたって、徒渡しの伝統を守り抜いたということだったようです。いつの世でもどこの世界でも改革を妨げるのは既得権益だったようです。

このように官民一体となって維持されてきた大井川の徒渉しも、幕府の崩壊に伴ってその基盤が失われることとなりました。明治になると、宿駅制が廃止され、ついには渡河の方法や位置までもが自由化されることになると、その命運は一気に尽きることになりました。時代の変革によって職を失うことになった川越人足の千数百人、家族を含めると約3千人の人たちが転職を余儀なくされました。行き場を失ったものたちは牧ノ原の丘陵地を開墾することになりましたが、新しい産業を生み出す苦労は並大抵ではなく、多くの方々の努力によって茶の栽培が軌道に乗せられていきました。こうして日本一の茶所・静岡の基盤が築かれたのです。

明治になると新政府は、希望者に有料の橋の架設や渡船の設置を認める通達を出しました。これは現代でいえばPFI、PPPにあたり、時代の要請にあたっては人間は英知を絞るものなのです。大井川でも地元の有力者が中心となって架橋計画が立てられ、明治15年に延長1255メートルの有料の橋が完成しました。しかし、その経営は楽ではなかったようで、洪水のたびに橋は損傷を受け、20年ほどで廃絶してしまったようです。大井川のような急流河川で、河床変動が大きく、河床に砂礫層が堆積している河川では、橋脚をいかに深く埋め込むかが重要となりますが、当時はそれだけの技術が発達しておらず、架橋の最大の難題であったことが伺えます。大井川に近代的な道路橋が完成するのは、ようやく昭和3年のことである。これが現在の大井川橋である。ちなみに東海道本線が全線開通したのは明治22年ですので、鉄道に比べて道路の整備はずいぶん遅かった訳です。

実際、自分が前職で勤務していた島田土木事務所では、大井川の河口から約24キロ地点より上流部の管理を行っていました。平成23年度には台風9号により大井川は非常警戒水位を超え、数々の災害が発生しました。その際分かったことですが、大井川の河床は一旦洪水が発生すると数メートル程度変動するということです。村松博氏の著した「大井川に橋がなかった理由」から伺える諸説はすべてがある意味で正しい理由であると思いますが、私は一番の理由は、やはり大井川のような急流河川は流路や河床が一定せず橋を架けるのには高度な技術が要り、なお且つ維持管理費用に膨大な金額がかかったからだと思います。そのいい例が大井川橋の下流に架橋されている蓬莱橋です。蓬莱橋は日本最大の木橋としてギネスブックにも認定されていますが、木造構造の橋脚が何度も洪水で流されたため、現在はコンクリート製の橋脚に替えていますが、未だに洪水が出るごとに被災を受けています。それだけ大井川のような急流河川に橋を架けることは難しかったということでしょうか。

くねくねと曲がった大井川に橋がかかっている風景写真
大井川の流れの風景

下から撮影した蓬莱橋の画像で、人が歩いて渡っている
蓬莱橋

 

こうしてみると土木遺産に認められる構造物には、それに至る数々の歴史が潜んでいることが伺え、ますます興味をひかれることとなります。皆様も一度そんな視点でご覧ください。

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