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第453回 市民の「安全・安心」を見守る火の見櫓

2013年11月22日更新

掛川市消防次長 兼 消防総務課長 白畑 喜久雄

今は昔、江戸時代の町火消は「火の見櫓」の半鐘を鳴らし火災を住民に知らせていましたが、屋根の上に「火の見」を設置したのが「火の見櫓」のルーツだそうです。
やがて、明治27年の消防組規則(勅令)制定による消防組(消防団の前身)が発足し、「火の見櫓」を設けることが謳われるようになり、都市部の各地に設けられるようになったそうです。この当時はまだ木造でしたが、大正期には鉄骨造りが登場し、昭和に入ると地方都市でも盛んに建てられるようになりました。しかし、太平洋戦争が勃発すると鉄骨造りは取り壊されてしまいました。
終戦後、全国では自主的に消防団が組織され、昭和20年代後半から30年代には鉄骨造りの火の見櫓が、地域の安心と安全を守る自負と誇りから消防団活動の象徴となりました。

高さ15メートル前後の「櫓型」火の見櫓の写真
各和地内から中央署へ移設

「櫓型」火の見櫓のプレート部分の写真
各和地内から中央署へ移設

 

唯一の現役櫓 黒俣地内の写真
唯一の現役櫓 黒俣地内

火の見櫓には高さ15メートル前後の「櫓型」と梯子の上に半鐘が取り付けられた「鐘櫓型」があり、掛川区域には約60箇所設置されていたようですが、それぞれの地域の鍛冶屋さんが手仕事で作成したものと思われ、形状は地域により異なっています。
昭和48年の消防本部の調査時には、既に13箇所が撤去されていました。やはり老朽化により倒壊危険があるため、地区からは撤去要望の声が多くなり、昭和50年以降にはそのほとんどが撤去されてしまいました。現在では櫓型は市内に3箇所に残っていますが、原泉黒俣地内の火の見櫓は同報無線のスピーカーが取り付けられた、地域に存する唯一の火の見櫓です。残りの二つは中央消防署に移設保存した各和の火の見櫓と、西分署に移設された満水地内にあったものです。
鐘櫓型は私の住む栃原地区をはじめ、掛川区域には所々に残っていますが、大須賀区域には石津地区に鐘櫓型が1箇所、大東区域にはすでに残っていないようです。

 

満水地内から西分署へ移設された火の見櫓の写真
満水地内から西分署へ移設

原田地内「鐘櫓型」火の見櫓の写真
原田地内「鐘櫓型」
バックは新東名

石津地内「鐘櫓型」火の見櫓の写真
石津地内「鐘櫓型」

 

今では、火災は高機能指令センターで119番通報を受け、受信と同時に通報者の位置図が画面に表示され、直ちに同報無線が放送されるなど、当時では考えられないほど技術は進歩しました。
明治27年の消防組規則(勅令)の制定による全国統一した消防組(消防団の前身)発足から今年で120年目となりますが、我が地域は我々が守るという地域愛護の精神は、今後も引き継いで行かなければなりません。

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