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第455回 水源を求めて

2013年12月3日更新

掛川市水道工務課長 中村 儀之

今年の梅雨は平年より早く明けたことで降雨量が極端に少なくなり、大井川上流の畑薙と井川ダムの貯水量も例年を大幅に下回りました。このため、渇水による取水制限がおこなわれ、市民の皆様に節水の呼びかけがおこなわれました。幸い台風18号の大雨により断水の危機は免れましたが、あと2週間まとまった雨が降らなかったら生活に大きな影響が出たと思われます。
この生活に欠かすことが出来ない水はどこに水源があって、どう流れてきているのでしょうか。何気なく使っている水道水は、管の中を流れ蛇口を出るまで人目にさらされることなく運ばれますので、知らない人がおおいと思われます。
掛川市の水道は使用水量の約1割が6つの自己水源から、9割が大井川広域水道からの受水で、ほとんどが大井川の水で賄われ安定した水量が確保されております。昔から掛川は、地形上大きな川も無く地下水が豊富な地域ではありません。また、年を通して豊富な流水が確保出来る河川もない地域であります。このように水資源に乏しい地域で水道事業の運営に携わってきた先人の苦労は並大抵なものでは無かったのではないかと感ずるものです。
このため、掛川の水道は県内の上水道では熱海市に次ぎ2番目に歴史が古く、大正9年に創設されました。水源は十九首地内に井戸を鑿泉さくせんし、当時掛川町の年間予算の5倍に匹敵する事業費を費やし建設された水道は、町内の中心部に給水されました。
その後、使用量の増加と給水区域の拡大による水不足のため、昭和3年二瀬川地区に水源を求め、さらに不足が生ずると、昭和31年原谷地区に水源を求めました。しかしさらに進む給水戸数・使用量の増加により夏の需要期ではしばしば断水が生じ、給水事業は最悪の状態となりました。
昭和40年には新たな水源を求め東山口地区の池下に浄水場を建設しましたが、数年たたずして住宅団地等の急増と企業の進出などにより、昭和46年夏期の需要が増加する時期には、一部断水区域が生じてしまいました。このため、昭和47年には細谷地区、昭和49年には原里地区に水源をもとめ拡張事業を実施しました。しかし大正9年の創設以来、増加する使用量に対する水源確保は限界となっておりました。
このように、水源確保が限界となっていた掛川市を含む大井川右岸(大井川より西側)の市町は、水が豊富な地域に水源を求めるしか方法はなくまた、大井川下流の扇状地の区域(島田・藤枝・焼津)では、地下水の過剰くみ上げによる地下水位の異常低下、地盤沈下、塩水化が生じ将来の水源確保に大変な不安が生じておりました。このことから昭和52年大井川の水を焼津・藤枝・島田・御前崎・牧之原・掛川・菊川市に安定的に送る事業(大井川広域水道企業団)が立ち上がりました。

上空から見た長島ダムの写真
長島ダム

経済も人口も生活水準も右肩上がりの時代、水源に乏しい掛川市では将来必ず水不足になることは明らかでありました。水がめである長島ダムは昭和52年から25年の歳月をかけて平成13年度に完成しました。この間、水需要は逼迫し長島ダムの完成を待たずして昭和62年度に相賀浄水場は完成し、昭和63年から浄水を開始しました。大井川広域水道からの受水は、川口取水口からの暫定取水により島田市の相賀浄水場で滅菌ろ過され、掛川市では、昭和63年4月から日量16,700立方メートルの受水を開始しました。
昭和63年の旧掛川市の1日平均給水量は21,520立方メートルでありましたが、平成24年の平均給水量は28,750立方メートルとなり約1.3倍の給水量となりました。もし、大井川広域水道からの受水が無かったら、現在の掛川市の発展も望めなかったのかもしれません。
上水道創設以来、安定した水源である大井川広域水道の受水がされるまでは、給水量の増加で断水の危機が差し迫るなか水源を求める日々がつづいておりました。現在の大井川広域水道からの受水量は、1市2町の合併を経て1日当たり44,900立方メートルを受水し、安定した給水がおこなわれております。

 

上空から見た相賀浄水場の写真
相賀浄水場

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