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第469回 旧山崎家住宅「松ヶ岡」と「以善堂」の取り組み

2014年3月7日更新

掛川市社会教育課長 松本 一男

掛川の商店街を西に進み、西町商店街の西の外れ、新知川(しんちがわ)を渡って直ぐ北に入り、住宅の間を30メートルほど進むと、正面に瓦葺きの大きな長屋門を目の当たりにする。門の右側に立つ石碑には、「明治天皇掛川行在所」とあり、明治11年(1878年)に明治天皇が巡行のおりに宿泊されたことを伝えている。ここは、かつて掛川藩を経済面でも支えた掛川藩御三家(豪商)の一つ、旧山崎家住宅「松ヶ岡」である。
ここでは、この松ヶ岡建物や庭園のすばらしさに加え、山崎家の歴史と功績、松ヶ岡を大切にする人たちの活動を紹介したい。

旧山崎家の住宅である松ヶ岡の長屋門と石碑
松ヶ岡(長屋門と石碑)

松ヶ岡の文化財的調査が、東京藝術大学によって行われている。主屋や長屋門などは、江戸時代末期安政3年(1856年)のほぼ建造時のままで、建築材料は全て厳選された一級品が使われており、丁寧な細工が施され仕上げられていることが大きな特徴となっている。また、中門を入ると、庭園には池(堀)や数多くの灯籠、沓脱の鞍馬石などがあり、「松ヶ岡」の名の由来となる多くの赤松が残り、それらが家屋敷をとり囲む堀周辺の高木を含め、遠くからも松ヶ岡とわかる屋敷林となっている。
松ヶ岡は江戸末期の豪商の屋敷構えを当初のままに良く残っており、明治11年に明治天皇が行幸された際に宿泊したという歴史のある建物であることも、建築史的、文化財的な評価を高めている。

松ヶ岡の主屋と松の木や石の灯籠がある庭園
松ヶ岡の主屋と庭園

さて山崎家松ヶ岡の歴史は、掛川市伊達方村寺ヶ谷から掛川城下に出て(18世紀中頃)、油商、葛布の問屋業などで成功したことに始まる。掛川藩の御用達商人として名を上げ、その後金子御用達となって、藩政にも関わるまでになった。御用達としては、掛川藩だけでなく、浜松、相良など幾つもの藩や代官にも使われ、明治維新になって各藩の負債整理にも加わり、債権放棄の代わりに掛川の他、三方原や遠州各地、大井川上流や伊豆天城等の広大な土地を得ることになり、静岡県下有数の富豪とまで言われるようになった。
8代万右衛門千三郎の時、自宅を明治天皇の行在所として提供したこともあって、明治期の掛川町のリーダーとして大いに活動した。茶再生工場建設(1881年)から森掛川街道の整備(1887年)を行い、初代掛川町長に就任(1889年)するや青田トンネル掘削(1892年)や掛川鉄道の設立(1893年)、大井川疎水の計画・測量(1888年)など進め、掛川小笠郡下から周辺地域の殖産興業のため、私財を投入して社会基盤整備のリーダーとして働いた。一方では、茶を中心とした地元産業への資金供給のための掛川銀行を設立し、初代頭取に就いて(1880年)町の経済基盤整備にも尽力した。
千三郎の兄7代当主の長男覚次郎は特に優秀な人で、東京帝国大学へ進学、卒業してドイツに留学。帰国してから後、東京高商を経て東京帝国大学に戻り教授まで勤めた。この間、経済学部長や日本銀行政策委員にも就いた。専門は金融論、通貨論で、叔父千三郎が掛川で金融機関の経営者であったことと無関係ではなかった思われる。後に、覚次郎は日本金融学会初代会長にも推されている。
千三郎は掛川において社会経済の近代化に多大な貢献をし、覚次郎は中央の学界に出て日本における「金融論、通貨論の先駆者」となった。旧山崎家住宅は、これら二人の人物を輩出した家として、また後世に伝えていかなければならない人たちであることも、文化財としての評価となっている。

松ヶ岡主屋の居間にある以善堂と書かれた、黒くて横長の長方形の額縁に入った書画
「以善堂」

さて、松ヶ岡主屋の居間に入ると「以善堂(いぜんどう)」と書かれた書画を目にする。
「以善堂」は、4代万右衛門「晨園(しんえん)」の雅号であるが、現在松ヶ岡に集まる市民の間では、「善いことをする人が集まるところ。以善堂、松ヶ岡」を活動の理念としている。

現在、教育委員会では、これからの松ヶ岡の保存活用について検討中であるが、松ヶ岡を訪れる市民が取り組んでいる活動を紹介したい。

毎月第4土曜日の午前8時。市民清掃の開始時間である。地元の十王町、西町を初め、中央1丁目、2丁目、瓦町。輪が広がり下俣、城西区へと。多い時で50人を超える人たちが庭や建物内の清掃にやって来るのである。男性が外回り担当で、落ち葉を掻き集めたり草木の刈り取り、立木の手入れなどを行う。建物内は女性担当で、窓ふきや畳の掃き掃除とふき掃除。作業は、必ず1時間だけと決めている。

松ヶ岡の主屋と庭園を清掃する市民ら
市民清掃活動

参加しやすい取り組みにしようと、6月の清掃作業では、庭にあるサツキの剪定をプロの庭師の方から教えてもらいながら行い、また、掃除参加のご褒美ということで、秋の新蕎麦の時期には、蕎麦の振る舞いを。年の瀬には、地元ご婦人方の暖かいお汁粉と美味しいたくわんの振る舞いを頂いた。

また、庭には自然に生えた樹や伸びすぎた樹木がたくさんあるので、庭職人の経験のある市民の方や林業に携わっていた人が平日に集まり、樹木の枝打ちや除却作業をして頂いた。そして、昨年11月20日と21日には、掛川市緑化推進協会の庭師の方々が、松ヶ岡のシンボル赤松等の剪定をして頂いた。松は、素人が手を出せるものではない。市民の方々ばかりでなく、プロの方々も動き出してくれた。人の輪が広がって、庭に陽が差し込んで、木々が輝きだした瞬間だった。

松ヶ岡の庭園にある赤松の木に長い梯子をかけて剪定する様子
緑化推進協会による活動

松ヶ岡にはやることが一杯。その一つが大工仕事。一線を退いた宮大工の方が、門の傾きを見かねて、中門の支柱や主屋通用口の木戸を綺麗に直して頂いたのである。

この他にも松ヶ岡の拘わる人たちの活躍ぶりはたくさんある。正月を前にした暮れの晦日には、長屋門に大きな門松を立ててくれた職人親子もいる。一つ一つがありがたいことで、こうした一つ一つの取り組みが、これからの松ヶ岡の保存、活用手法のヒントを与えてくれるものと思っている。以善堂が松ヶ岡の理念として。

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