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第472回 あれから9年 ~時は流れて~

2014年3月28日更新

掛川市健康福祉部付理事 中山 富夫

平成17年4月の新掛川市誕生から早9年が経過し、10年目を迎えようとしています。思えばこの「寸感ホットページ」の最初の投稿は平成17年の5月、寸感ホットページ第9回「十王のお地蔵さま」からで、今回はなんと第472回目となり、自身としては9回目の原稿当番となりました。
最初は、「合併により、広くなった市域全体の方にも自分達の住む地域のことを知っていただきたい」ということで第1回目をスタートし、これまで毎回ずっと同じ気持ちでわが町「十王」のことを紹介させていただいてきました。
これまでのことで、少しは「ああ、あそこのまちのことだな」と記憶に残していただいた方はあったでしょうか?9回目の今回も引き続き、お伝えしていきたいと思います。

安永元年・1772年の家々が並んでいる手描きの絵図。
中央に十王堂と菩薩院がある
安永元年・1772年家並絵図
中央に十王堂、菩薩院の文字

明治12年・1879年の家々が並んでいる絵図を分かりやすく活字化したもの。南側に十王堂がある
明治12年・1879年家並絵図を
活字化したもの・南側に十王堂
(画像をクリックすると拡大できます)

 

「十王」の町名の由来は、町内にある十王堂からとされています。
掛川誌稿では十王堂に関して、「別堂ヲ菩薩院ト云修験ナリ、北条家ノ時、慶安元年極月、十王堂領一石五斗免許ノ證文ヲアタヘラレテ、町ノ南側ヲ有セリ、故ニ其ノ町ヲ呼ヒテ十王町ト云、本尊ハ地蔵尊、左右ニ十王ヲ列セリ、地蔵は古佛ニシテ年号ナトアリシト云傅レト今ハ見ヘス、堂モイツ建シト6云事モ知ラネト、堂後ニ数圍ノ松アルヲ以テ思ヘハ、古キ事ト見ヘタリ」と記されています。
この1648年(慶安元年)、三代将軍家光の時、掛川城主北条出羽守氏重が建立されたとされるお堂も安政の大地震にあい、現在のお堂は大正10年に再建されたものとなっており、お堂の前には堂再建に尽力された方々を刻む記念碑が立っています。

大正10年に再建された現在の十王堂
現在の十王堂

石のお地蔵さま
石の地蔵様

お堂の再建に尽力された方々を刻む記念碑。十王堂の前に建っている
再建の碑

 

区民に「お地蔵さま」と呼ばれ、親しまれている十王堂には、子安延命地蔵菩薩を中心に、閻魔大王、弘法大師の三体が安置され、毎月の縁日には各組が当番で清掃やお念仏をあげ、お祀りしています。また、年に一度の御開帳は毎年7月16日に行われ、近隣の老若男女、浴衣姿の子ども達が集まり、賑わいを見せています。このお地蔵様にお供えしたお灯明のろうそくの残りをいただき、お産の時にこれを灯せば、この灯りが消えて無くなる頃には安産できるとされ、お灯明が短いほどお産の苦しみから救われるという言い伝えから、短いろうそくを求められていく方もいらっしゃいます。
このように、毎年・毎月、綿々と地域の行事が引き継がれ、お堂を守り、現在に至っています。

年に一度の御開帳時の十王堂の写真。お供え物や提灯が飾られている
御開帳時のお堂

菩薩院十王堂の由来が記された看板
十王堂由来看板
(画像をクリックすると拡大できます)

 

これまでの永い地域の歴史の中で、この9年間はどうだっただろうか?まちは変わっただろうか?と思い、まわりを見てみますと、世帯数、人口が若干減り、高齢化が少し進みましたが、町並みも含めてそんなに変わっていないように見えます。それでも時は流れていて、毎年1ページずつ新しい歴史を重ねながら、この地域の歴史が編まれていきます。これから、どんなページを作り、どう重ねていけばよいのか、ここに住む住民が考え、新しいページを作り重ねていかなくてはいけません。

ここ数年での変化、地域の大きな話題といえば、町内のもうひとつのキーポイントである「松ヶ岡」が、掛川市によって買い取られ、その保存活用が検討され始めたことがあげられます。そして今、多くの市民の皆様のご奉仕により、この「松ヶ岡」の保存美化が続けられています。

旧山﨑家住宅である松ヶ岡の長屋門
松ヶ岡長屋門

新知川の川沿いに続く満開の桜の木
新知川の桜

 

こうした新しい流れも生まれ、形の有るものも無いものも、様々な「もの」や「こと」が、これからどう「十王」の歴史の流れの中に編み込まれていくのか、また、組み入れていけばよいのか…。

桜の季節、新知川の桜も咲きだす頃となりました。今年の桜はどうだろうか。去年とは違う、新たな表情を見せてくれるだろうか。平成26年の桜を眺め、改めて時の流れと地域のことに思いを巡らせてみたい。

注 参考・引用:十王ものがたり「いつか来た道」(平成11年10月発刊)

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