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第495回 それを「えにし」と呼びたい・・・合併10年目を迎えて

2014年8月15日更新

掛川市市民課長 山崎えみ子

海に面した市域がなかった旧掛川市が、南部の旧大東町、旧大須賀町と合併して10年がたとうとしています。「平成の大合併」の話が出ていた頃、私は「郡」単位での合併で「小笠・掛川」区域が一つの市になるのだろうと勝手に想像しておりましたが、その後それぞれの区域で合併が固まり、最終的に1市2町になりました。個人的な出来事ですが、現在は改めてこの2町との「縁」を感じています。

旧大須賀町との「縁」は、昭和54年に高校時代の大親友が浜松市の中心街から大須賀町の西大渕に嫁ぎ、その時はまだ掛川に嫁いでいなかった私を招き、大須賀町という地を何回も案内してくれました。歴史を感じながら穏やかな町並みをゆったりと歩き、気持ちが落ち着いたことを思い出します。たくさんの美味しいお土産もいただきましたが、特に醤油好きの私はすぐに「栄醤油」のファンになりました。友は「浜松の喧噪の中に生まれたけど、優しいいい町に嫁いだ」と話しながら、嬉々として子育てをしていました。

道路のすぐそばに家々が立ち並んでいる旧大須賀町の町の様子
旧大須賀町の町並み

旧大東町との「縁」は、平成18年8月の「日中友好使節団」による中国訪問随行です。合併の数年前に兵馬俑に憧れ訪中を経験し、4月からこの事業を担当する部署の係長として着任。やはり縁があったようです。

この訪問団は、旧大東町嶺向に誕生した郷土の偉人「松本亀次郎」を顕彰し、将来の掛川をしょって立つ青少年に中国のことを勉強していただこうと事業が続けられ、この年は11回目となりました。松本亀次郎については、大東図書館でその功績を確認いただきたいと思いますが、文豪魯迅、周恩来元総理、女性活動家の秋瑾がその教え子として知られています。

この年の訪問内容は、中国国際青年交流センターが主催する「2006年北京国際キャンプ」に参加するということで、中国・韓国・日本の3ヶ国の若者が参集し、交流カリキュラムが組まれ、それぞれの伝統芸能の披露や、互いの学校生活の情報交換、また水泳や陸上の競技会も組まれ、中高生の皆さんには積極的に参加していただきました。

宿泊は1990年アジア競技大会の選手宿舎を利用し、食事は、毎朝おかゆを主食とした献立でした。慣れない食事が5日間続いたので食べられなくなる子も出てきて、宿舎近くの食料品店であんパンに似たパンを購入し、空腹をしのいだという出来事もありました。

昨年、中国のオークションで魯迅の手紙が売却されましたが、その手紙には「日本語を学び小説を読めるようになるまでに必要な時間と労力は、決して欧州の文字を学ぶのに劣らない」と書かれていたそうです。外国との友好のためには相手の理解がまずはじめにありきということは明らかで、この交流事業に参加された皆さんが、第二第三の松本亀次郎になっていただくよう頑張ってほしいと思っています。

周恩来記念館にある松本先生と周恩来青年を描いた絵画の写真

周恩来記念館で撮影した絵画「松本先生と周恩来青年」
真ん中の髭を蓄えた方が 「松本亀次郎先生」。中央で子どもを抱いている学生が若い頃の「周恩来元総理」。背景には、五重の塔や着物姿の女性も描かれている
(大きな絵画の前で記念撮影をしたので、下方部分を修正させていただきました。)

もう一つ旧大東町との「縁」を感じているのは、合併より10年ほど前の出来事です。好きな作家の小説はほぼ読み尽くしているつもりだったのですが、まだ読んでない作品があるかなと思い、図書館で短編集を手にとっていたところ、題名は忘れてしまったのですが、若い女性主人公が「吉岡彌生になりたい、吉岡彌生になりたい」と希望をもって人生を突き進む、という箇所があり、そこだけがずっと記憶にとどまっていました。当時の私は「吉岡彌生」を知らず、一体どんな人物なのだろう?という思いのまま小説を閉じました。

合併後、旧大東町の歴史を学び、「吉岡彌生記念館」が存在していることを知った時には本当に嬉しかったことを思い出します。偉大な女性が掛川市から誕生したということに大変誇りを感じます。

以上のことは私の個人的感懐の「縁」ですが、この世にはいろいろな「縁」は存在していて、私達はそれを大切にして生きていくことが重要ではないかなと思うこの頃です。

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