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第526回 「掛川市の礎を築いた山崎家、松ヶ岡」

2015年2月13日更新

掛川市社会教育課長 松本 一男

現在、掛川市十王町にある山崎家住宅「松ヶ岡」を知る人は少ない。しかし、江戸時代後期から明治時代にかけて、掛川の町はもちろん静岡県内において、山崎家松ヶ岡を知らない人はいなかった。

掛川市では、平成25年度から昨年10月までの間、市民委員19名の方々にお願いして、松ヶ岡の保存活用について検討して頂いた。その過程で、山崎家松ヶ岡の歴史を調べ、最終報告書にまとめているので、それを頼りに山崎家の歴史を紹介したい。

山崎家の活躍振りについては、知れば知るほど、掛川市のまちづくりに果たした功績が大きかったことに驚かされ、それらは掛川市民の誇りとして、再び語り継がなければならないことと思う。

それでは、松ヶ岡、旧山崎家の歴史を語る部分について、「松ヶ岡保存活用検討委員会報告書」から資料『静岡県掛川市「松ヶ岡プロジェクト」の背景と構想』をそのままに引用して紹介しよう。

右側に明治天皇行在所の碑がある、松ヶ岡正門(長屋門)の外観写真
松ヶ岡正門(長屋門)(右側に明治天皇行在所の碑がある)

1 山崎家と「松ヶ岡」の由来

山崎家は、1700年代半ば掛川藩の周辺村落部(旧伊達方村)の旧家から分家した。初代万右衛門(まんえもん)は、油商を営んで成功し、間もなく掛川城下の西町に居を移し、油に加えて、ろうそくなどの商品を手広く商い、その後の家運隆盛の基礎を築いた。

山崎家では、3代以前の早くから藩の必要とする物資の御用達(ごようたし)商人に指名され、4代には、その実績のうえに、身分的にも苗字帯刀(みょうじたいとう)を許され、藩政に関わるようになった。5代からは、代々の当主が商品経済の発展に応じて、地域の特産品(葛布)の問屋業を営み、6代では新田開発などに乗り出し、それぞれ成功を収めた。また、6代では、藩の財政窮乏に伴い、金子御用達(きんすごようたし)となり、その御用達先は掛川藩に止まらず、浜松など近隣諸藩や代官にも広がっていった。7代当主の時期に明治維新の変革があったが、山崎家当主は、この時旧藩の負債整理に参与することとなった。そして、旧藩への債権放棄の代償として、あるいは、手持資金の投資により広く近隣の田畑を手に入れたほか、三方原・遠州奥山、大井川上流、伊豆天城の各地の森林を取得して、静岡県下有数の富豪と言われるようになった。

なお、現在の旧山崎家住宅は、6代当主が西町から移転し、1856年(安政3年)に建造したものであり、この土地に多くの赤松が立っていたことから、「松ヶ岡」と呼ばれることとなった。また、8代千三郎が当主であった1878年(明治11年)明治天皇の北陸東海御巡行があった際には、松ヶ岡山崎家住宅は天皇に行在所(あんざいしょ)として提供された。

2 建築としての歴史的意義

松ヶ岡(旧山崎家住宅)は、敷地面積5,302.16平方メートル、建物(9棟合計)面積1,157.45平方メートル(延べ床面積)である。これらは、主屋、長屋門、中門など、江戸末期1856年の建造時のまま残されており、当時建築材料がかなり広範囲に流通するようになった状況を反映し、いずれも厳選された第一級の材料をもって丁寧な細工により建造されている。なお部分的に、後世の改修が認められるが、その部分を撤去すれば、容易に当初の形に復元できるものである。

また、中門の奥には庭園があり、そこには、池、多数の灯籠(とうろう)、沓脱(くつぬぎ)の鞍馬石(くらまいし)などが見られる。また、「松ヶ岡」の呼称の起源となった多くの赤松も残り、それらが屋敷をとり巻く外濠周辺の高木ともども遠景からも識別できるほどの屋敷林を構成している。

このように、旧山崎家住宅は、建築庭園が全体として江戸末期の豪商の屋敷構えをほぼ原型のままに残していること、及び、明治天皇の行在所という歴史上の出来事のあった場の遺構でもあることから、大きな建築史的な意義をもつものである。

旧山崎家住宅の座敷の写真
松ヶ岡主屋 座敷(明治天皇玉座)

3 社会経済の歴史から見た意義

旧山崎家の歴史は、江戸中期以降の町人勢力が経済的実力を蓄積し、藩体制の中にあって武家との勢力バランスを徐々に自己に優位にしていく姿を示している。そして旧山崎家住宅は、明治維新で両者の力関係が最終的に逆転する僅か12年前に、江戸の藩政がなお続く中で町人の実力を誇示するかのように建造されたと見ることができる。別の言い方をすれば、旧山崎家住宅は日本の歴史の中で町人ともに市民が優位に立つ近代化の幕開けの象徴としての意義をもつと言うことができる。

4 地域経済の近代化のためのインフラ整備

山崎家8代千三郎(せんざぶろう)は、自宅を天皇の行在所として提供したことによって、武家に取って代わって公共的役割を果たす地方のリーダーとなる準備を整えたと言える。千三郎はその後、公共性の高い分野で際立った活動を展開した。1889年(明治22年)の初代掛川町長に就任した前後を通して、1881年(明治14年)には茶再生工場の建設、1887年(明治20年)には森・掛川街道の開設、1888年(明治21年)には大井川疎水の計画・測量、1892年(明治25年)には青田坂トンネルの掘削、1893年(明治26年)には掛川鉄道設立など、立て続けに地域の殖産興業のための物的インフラの整備にリーダーシップを取り、多くの私財も投じた。

8代 山崎千三郎氏の肖像画
8代 山崎千三郎

山崎覚次郎の肖像画
山崎覚次郎

 

5 掛川銀行の創立と役割

千三郎はまた、物的インフラの整備とともに、金融というソフトのインフラ整備にも取り組んだ。すなわち地方の経済発展、特に茶をはじめとする地場の産業からの資金需要に応じること、また、地方で官金を取り扱う銀行が必要なこと、さらに、世界に茶産業を広めるため外国為替などの取り引きができる銀行が必要なことから、千三郎は1880年(明治13年)に掛川銀行を設立し、自らが初代頭取となった。

当時、静岡県内には静岡三十五銀行(しずおかさんじゆうごぎんこう)、浜松二十八銀行(はままつにじゆうはちぎんこう)がすでに設立されていたが、掛川では、国立銀行の称号をもつ銀行の設立期限に間に合わなかったため、「掛川銀行(かけがわぎんこう)」の名称での設立となった。しかし掛川銀行の資本金は千三郎らの努力によって300,000円に上った。これは三十五銀行の70,000円、二十八銀行の120,000円を遥かにしのぎ、全国有数の大銀行となった。千三郎たちの地域経済の発展にかける並々ならぬ熱意とそれを裏付ける経済的実力が備わっていたことを示すものであった。

6 日本の金融貨幣論への貢献

山崎覚次郎(かくじろう)は、千三郎の甥(おい)にあたり1868年(明治元年)6月に、山崎家7代德次郎(とくじろう)の長男として生まれた。覚次郎は、のちに京都帝国大学総長や文部大臣などを歴任した岡田良平(おかだりょうへい)や、のちに文部大臣や宮内大臣などを歴任した一木喜徳郎(いっききとくろう)とともに、冀北学舎(きほくがくしゃ)(掛川市倉真にあった私塾)で学び、「冀北三羽ガラス」と評された。

1889年(明治22年)に、帝国大学法科大学政治学科を卒業し、1891年(明治24年)に、ドイツへ留学した。1906年(明治39年)には東京帝国大学法科大学の教授に、1919年(大正8年)東京帝国大学経済学部が作られるときは創立のメンバーとなり、1920年(大正9年)から1923年(大正12年)までは、第二代の経済学部長を務めた。

覚次郎の講義科目は貨幣論と銀行論であり、研究では特に貨幣の価値や貨幣制度の研究に力を注いだ。当時わが国の金融は未だ揺籃期にあり、にもかかわらずこれを学者としての専門分野としたのには特別な理由があった。叔父千三郎が掛川銀行の設立を主導し、その経営に当たったこと、及び、覚次郎自身が千三郎の死去後一時同行の取締役となったことである。それのみならず、覚次郎自身が「自分は金融の研究よりも、金融業界で働くことに興味があった」と回顧しているほどであった。しかし、覚次郎の現実の活動はあくまでも金融論、貨幣論の研究にあり、その成果を敢えて概括すれば、当時の日本が金本位制のもとにあったにもかかわらず、金本位は単なる名目でしかないとの主張を展開し、現在の管理通貨制度への途を拓く役割を果したということであろう。

このように千三郎は地方にあって、その社会経済の近代化に多大な貢献を果たし、覚次郎は中央の学界に出て、日本における「金融論、貨幣論の先駆者」の途を歩んだ。旧山崎家住宅は、これら二人の人物を輩出した家としても、後世の人々から顧みられるべき価値をもつ文化財であると言うことができる。

以上、『松ヶ岡保存活用検討委員会報告書』資料『静岡県掛川市「松ヶ岡プロジェクト」の背景と構想』から、江戸時代から明治時代にかけての山崎家の活躍振りを紹介した。

山崎家の歴史の中でも、特に近現代における8代千三郎と甥の覚次郎の功績は大きく、千三郎の取り組みは、掛川の町の近代化、インフラとソフト両面の整備に力を注いだ、まさに掛川市の礎を築いたものであった。また、甥の覚次郎においては中央の学会に出て、日本の金融論、貨幣論の先駆者と言われ、日本の金融界で偉大な活躍をしたのであった。

このように、山崎家から輩出された二人の活躍からも、山崎家、松ヶ岡が歩んだ歴史は「掛川市の礎を築いた」掛川市民の誇りとして、これからも伝えなければならない掛川市民の歴史である。

(了)

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