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第563回 消防団に入ろう

2015年9月18日更新

掛川市消防総務課長 今駒敏雄

「消防団」:1947年4月20日の消防団令によって設置された消防のための団体。原則として1市町村に1団が設置されている。現在は消防本部及び消防署と並列的な地位にあり、消防組織法に基づく消防組織の一つとして、火災や震災等の災害を軽減することを目的とした公的な機関である。地域住民の有志で組織され、消防団員は平素は各自の職業に従事しているものの、有事の際には召集されて消防業務に従事するようになっており、一般的には非常勤の特別職の地方公務員である。(世界大百科事典第2版より)

全国的にも消防団員数は年々減少してきております。当掛川市においても年々減少し、本年4月1日現在では、定数803人に対して779人(うち女性18人)で24名の定数割れとなっています。大災害が心配されているなかで、阪神淡路大震災や東北大震災の経験を踏まえると定数自体が十分とは言えない状況と思われます。
近年の多くの若い人たちの考えは消防団というと、訓練が厳しい、プライベートな時間を団活動にとられてしまう、会社へ迷惑が掛かってしまう等の危惧から入団を敬遠されることが多くなっています。
しかし、いざ大災害の時は消防団の力が大変重要になります。
本年4月、消防総務課長を拝命した私に、この原稿の順番が来ましたので、私にとってこれまでの人生の中で、消防団時代に貴重な体験をさせていただいたので、私事で恐縮ですが書かせていただくことにしました。

私が消防団に入団したのは23歳の時で、所属団は掛川市消防団第2分団第1部(現在は第2方面掛川分団)、市街地中心部の消防団です。当時、市内の消防団では唯一水槽タンク付消防車が配置されており、団員の自慢の種でもありました。
私が住んでいたのは緑町、自町では2人の選出義務があり、この時現役の方々はそれぞれ7年、8年と団歴が長く、退団の希望の時期がきていました。当時、自町から後任を出さないと退団できないという決めごとがあり、お話をいただいた時は、まだ入りたくない、でも2人を順次退団させてあげたい、との葛藤とともに、当時市役所野球部に所属しており、毎週日曜日はほとんど試合で、まだまだ野球のできる体でしたので、それができなくなってしまうのでは、との懸念もありました。結局は、自町から2人という義務感と、少しばかりのボランティア精神と、周囲からの強い説得に加えて、自分が入らないと2人が退団できないとういう気持ちから入団することにしました。

チェーンソーを使った訓練のようす
消防署との合同訓練

小学校で消防訓練をするようす
地元消防団による小学校訪問

 

入団してみると先輩団員の皆さんは、多くが自営業の経営者か跡継ぎ、7年間の消防団生活で知り合った人を具体的に掲げてみると、印刷屋、米屋、運送屋、食品卸、八百屋、花屋、魚屋、喫茶店、寿司屋、居酒屋、食堂、料亭、旅館、カメラ屋、石屋、鋳物屋、ふとん屋、呉服屋、文房具屋、床屋、クリーニング屋、水道工事、電気工事に加えて、サラリーマンでは学校の先生、大企業での交代勤務の人もいました。
自分自身「人脈は財産」として人生を歩んできましたので、退団して27年経った今でも、この中の多くの方々と今だに親交があり、何かの時には連絡しあったりしています。実際自分に万一のことがあっても、このみなさんに少しづつ助けてもらえば、生きていくのに困らないくらいです。それは冗談としても、いずれも気のいい人ばかりで、現役中はいろんな職種の人からいろんな話が聞けて、知識が深まり、視野が広がったのも消防団のおかげであると感謝しています。

肝心の消防団活動ですが、入団してまもなくの6月、8月末に開催される操法査閲大会の選手に選ばれました。2ヶ月間ほどの早朝訓練は正直過酷なものでした。高校まで野球部に所属していましたので、「俊足を活かしてがんばれ」(信じる人は少ないでしょうが、高校時代は盗塁もできました。もちろんセカンドへの盗塁ですよ。)とおだてられれば、弱音も吐けず、毎朝4時半に集合、2時間ほど訓練、それから仕事という生活が2ヶ月ほど続きました。大会で披露した日の慰労会では、たいした出来映えではありませんでしたが、大きな仕事を成し遂げたような達成感というか、ともに苦しんだ仲間との連帯の強まりというか、いろんなことに満足感を持ち、それまでの人生で一番美味しい酒を呑んだ思い出があります。(現在掛川市ではこの操法大会は消防団員の負担軽減のため廃止となっています)

入団した年の9月、大型の台風に襲われました。消防団は状況に応じて水防団としても活動します。前日から降り続いた大雨の影響で、市内の中心を流れる逆川が増水し、朝召集された時には、氾濫寸前、掛川駅前の当時泉屋酒店さんの四ッ角は道路上に川のように水が流れ、歩くと太ももまで水が流れている状態でした。相当数の家屋が床上浸水となり、最終的には土手沿いに建っていた倉庫付き住宅1棟が川に流されてしまいました。
翌年は、大型レジャー施設のガス爆発事故にも出動しました。何人もの方が亡くなり、多くの方が重症となる大惨事でした。
生活の拠点を失う人や尊い命を落とした人を目の当たりにしました。私の消防団への想いは、単なる義務感やボランティア精神から、市民の生命や財産を守る重要な任務であり、頼りない自分の力でも少しでもお役に立たなければ、消防防災関係従事者の端くれとしての使命感のようなものが芽生えてきたのもこの頃からでした。

団歴7年は決して長くはなくまだまだ長く続けてくれた方はたくさんいましたが、私は住居が変わったり、いろいろ事情があり退団させていただきました。前述したように大変な事もありましたが、良い仲間と旅行に行ったり、酒を酌み交わしたり、普通に楽しいこともたくさんありました。当初心配した野球も体が言うことを聞かなくなるまで続けることができたし、在団中に結婚もできました。
なにより、消防団は私に多くの人と出会える機会を与えてくれ、これまでにない経験をさせてくれ、私自身を成長させてくれました。

出初式で行進をする消防団のようす
出初式での行進

夜間に小型ポンプを使った訓練をする予防指導隊
予防指導隊による小型ポンプ操法

 

これは、私の感想であり、誰にでもあてはまるものではないかも知れません。20代から30才前後の皆さん、試しにあなたもぜひ一度消防団の門を叩いてみてはいかがでしょう?きっと失うものより、得るものの方がたくさんあると思います。
最後に、団員のご家族、事業所のみなさん、今後も消防団活動に、より一層のご理解とご協力をお願いいたします。

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