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第585回「陣場峠登山道を整備しました」

更新日: 2016年1月29日
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掛川市商工観光課長 戸塚宏五

 陣場峠は、「希望の丘」の南に位置し、小笠教育会館の西側に隣接しています。ふもとから頂上までは5分程度ですが、急な登り坂で息が切れます。この急な登山道の木製階段が劣化してぼろぼろになってしまいました。
 そこで、平成26年と平成27年にかけて希望の丘運営委員会のみなさんと南郷地区のみなさん、杉谷共有地のみなさん、市及び造園業者が協働して登山道の整備作業を行いました。平成26年は入口から頂上までの約半分の階段65箇所を整備しました。今回、平成27年11月に残り半分の階段を整備し安心・安全に登れるようになりました。作業は人海戦術で、腐食した丸太を交換した後、敷き砂利を参加者約40名が手渡しで運搬し、滑りやすい場所や窪んだ所を整備しました。また、眺望の妨げになっていた枝も払いました。作業は2時間弱で終了しましたが、慣れない重労働で大変疲れました。作業終了後、頂上で一休み。頂上からは掛川の街並みが一望でき、とても素晴らしい眺めです。地元の皆さんも市も、今後「陣場峠」を掛川市の観光施設の目玉としてPRに努めていきます。頂上の僅かばかりの広場に商工観光課が設置した陣場峠を説明した立て札があります。見たことのない方のために、説明文を紹介します。
作業終了後参加者で記念写真
作業終了後参加者で記念写真
作業の様子
作業の様子
整備された登山道
整備された登山道
 「陣場峠は、掛川市杉谷と板沢の頂点境で、もとは青田峰と言われ、市の中心までは約1キロメートルの位置で二つの峰からなっている。西を西陣場、その西を蛇バミ峠といい東を東陣場という。
 永禄11年(1568)、徳川家康は武田信玄と大井川を境にして駿河・遠江を分割することを約束し、遠州に進攻した。同年12月今川氏真は信玄に駿府を追われ、掛川城の家臣朝比奈泰朝に身を寄せた。そこで、当時26歳の家康は6ヶ月にわたってこの城を攻めた。この掛川城攻めの際、この山上を陣地としたので陣場峠と呼ばれるようになった。ふもとには、取手、矢崎などの地名が残っている。
 また、天正2年(1574)、武田勝頼が高天神城を攻めると、城主小笠原長忠は奮戦して浜松城の家康に援軍を求めた。家康は使者に向かって、「援軍が必要な時には青田山(陣場峠)に狼煙を掲げよ」と言った。しばらくして青田山より狼煙が3回ほど揚げられたが援軍は来ず、城兵の食料はなくなり、力がつきてついに武田氏に降参することになった。当時、ここを高天神城の信号所として家康は目をつけていたのである。」と記されています。
 なお、「郷土誌 南郷」によれば、この時家康から要請を受けた信長の援軍は今切りの渡しまで来ていたとのことです。落城があと数日遅れ、信長、家康の援軍が間に合っていれば高天神城は落城しなかったかもしれないとされています。
立て札
立て札
 今年のNHK大河ドラマは真田信繁(真田幸村)が主人公ですが、信繁は1567年の出生と言われていますので、信繁7歳の時に臣従していた武田勝頼が高天神城を攻めてきたのですね。
 また、その6年前に徳川家康も陣場峠から掛川城をじっと見つめていたのですね。当時の家康の目には掛川城やその周辺はどんなふうに映ったのでしょうか。
 みなさんも陣場峠に登り、頂上から家康になったつもりで掛川城をじっと見つめて下さい。そして、その10年後の1578年に、自分が落とした掛川城の近くの西郷出身であり、2代将軍秀忠の母親となる「お愛の方」を側室で迎えるということに思いをはせながら・・・。
 きっと歴史のロマンを感じることができるでしょう。
陣馬峠から掛川城を望む
陣場峠から掛川城を望む


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