総合トップ記事第593回 掛川三城と徳川家康 ~掛川三城にみる徳川家康の痕跡とその後の城づくり~

第593回 掛川三城と徳川家康 ~掛川三城にみる徳川家康の痕跡とその後の城づくり~

2016年3月25日更新

掛川市IT政策課長 戸塚 和美

世は空前のお城ブーム。世界遺産の姫路城(兵庫県)、天空の城竹田城(兵庫県)をはじめ、日本各地の中世城郭・近世城郭には城郭ファンのみならず多くの観光客が詰めかけています。NHK大河ドラマ「真田丸」でも、新府城(山梨県)・岩櫃城(群馬県)・上田城(長野県)などの著名な城郭が登場、お城ブームと真田丸効果も手伝って多くの人々が訪れることでしょう。ドラマ後半、真田信繁(幸村)と徳川家康が雌雄を決す舞台、大坂の陣の真田丸・茶臼山などは最大の見所であり、テレビや雑誌でも真田丸特集として取り上げられています。

さて、当地にある掛川城・高天神城・横須賀城は、いずれも徳川家康との関連の深い城郭です。家康の天下取りの過程において、この三城は今回の大河ドラマの舞台となる大坂の陣での城づくりにもにも少なからず影響を及ぼしました。ここでは、三城と家康の関係と、その後の家康の城づくりへの影響を紹介します。

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いにより遠江と駿河を支配していた今川義元が討たれ、今川氏の勢力が衰退し始めると、遠江の国衆・国人と呼ばれる在地領主は今川氏に反旗を翻しました。その混乱に乗じるように、甲斐の武田氏は今川領であった駿河への侵攻に加え、さらに遠江と三河を攻略するため両国にもたびたび侵攻し、遠江を固守しようとする徳川氏との間で攻防が繰り返されていました。

高天神城の位置する東遠江は、武田氏と徳川氏の両勢力の境界地帯にあたります。徳川氏の重要拠点として長年にわたり武田氏の攻撃に耐えていた高天神城でしたが、天正2年(1574年)、武田勝頼の猛攻によって武田氏の城郭となりました。これを奪還するための拠点として、徳川家康は横須賀城を築きました。

高天神城は、徳川氏の東国支配のための最前線として、また武田氏を駆逐するための橋頭堡として、命運をかけた城郭でした。武田氏の西国侵出にとっても同様で、お互いに是が非でも手中にしなければならない重要な駒でした。

戦国時代後期の城郭の地図
戦国時代後期の遠江の城郭

戦国史に残る攻防が繰り返された高天神城でしたが、天正9年(1581年)、家康が奪還すると、その後間もなく高天神城は廃城となり、歴史上の表舞台からは姿を消してしまいます。遠江平定の足掛かりとして重要な駒でしたが、勝敗が付き不要となれば後は捨てるだけの駒でした。守り易く攻め難くく、加えて迎撃にも優れていた高天神城でしたが、三河・遠江・駿河の三国を手中にした家康にとっては、もはや高天神城の戦略上の意味は無くなってしまいました。おそらく家康は、最初から高天神城を廃城にすることを考えていたのでしょう。徳川氏にとっても、武田氏にとっても必要不可欠な城郭であったことは間違いありません。両者にとってそれぞれの次のステップへの進出が決まる城郭でしたが、勝敗が付き、どちらかが完全に手中に収めた段階でその存在価値は一気に下がってしまったのです。

その一方、横須賀城には城代を置き城郭として存続させました。横須賀城も軍事拠点としての存在意義は薄れたものの、当時の横須賀城は湊(みなと)を擁していたため船による大量物資の輸送を可能とする物流拠点としての城郭でした。高天神城のように高い戦術性だけでなく、物流拠点としての経済的側面が城郭にも求められる時代へと移り変わりつつあることを家康は十分理解していました。

正保国絵図 1640年頃の地図
横須賀城と横須賀湊(正保国絵図「1640年頃」を見ると横須賀城に入り江「湊」があったことがわかる)

さて、高天神城での家康の形跡、言い換えれば家康による城の改修の痕跡はほとんど見当たりません。西峰の二の丸を中心とした曲輪群では、長大な横堀と複数の小曲輪を連ねた複雑な構成が見られます。城内に侵入した敵方を効果的に迎撃する仕掛けにより、戦闘的かつ技巧的な山城へと変貌していったことが発掘調査成果からもわかりますが、そのほとんどは天正2年(1574年)から同9年(1581年)にかけての武田氏の改修によるものです。

高天神城西峰の曲輪群の地図
高天神城西峰の曲輪群
(長大な横堀と井楼曲輪・堂の尾曲輪などの小曲輪が連なる)

天正3年(1575年)長篠の戦い以降、武田氏が劣勢になると、諏訪原城(島田市)、二俣城(浜松市)等の武田氏の拠点城郭を徳川氏が次々と奪還していきます。その過程において、武田氏の先進的な築城術を目の当たりした徳川氏は、自らの城郭においても横堀や二重堀切による武田氏の防御性の高い築城術を学び盗んだ(取り入れていった)と考えられます。徳川氏によって改修された、馬伏塚城・久野城(どちらも袋井市)では長大な横堀が採用され、それまでの武田氏の横堀に比べ規模は大きくなり改良が加えられました。また、徳川家康が朝比奈・今川氏から奪った掛川城においては、三日月堀・十露盤堀・内堀による守り易く攻め難い非常に技巧的な虎口(城の出入り口)が造られており、堀などの大規模化に加えて当時の最先端の築城術を取り込んだ、徳川氏の城づくりにおける先進性が見て取れます。

掛川城の本丸虎口の地図
掛川城の本丸虎口(三日月堀・十露盤堀・内堀に囲まれた技巧的な虎口)

高天神城における家康、徳川氏による城づくりの痕跡は見出し難いものの、武田氏との激しい攻防戦を通じて高天神城の堅牢性と戦術的ポテンシャルの高さを認知していた家康は、その後の城づくりの新技術として取り込み、遠江各地の城郭を整備していきました。言い換えれば、高天神城や掛川城をめぐる遠江での戦いの中で、城づくりを学んでいったのです。
掛川城・高天神城・横須賀城は、家康にとって城郭を中心とした政治と経済的側面において大きな変換を促した城郭でした。高天神城の戦闘的かつ技巧的な城づくりの技術を掛川城や横須賀城に取り入れ、後に天下人への転機となる小牧長久手の戦い、関ヶ原の戦い、大坂の陣、それぞれの合戦での陣城築城に生かされることになりました。

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