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第600回 「直虎」放映前の予備知識

2016年5月17日更新

掛川市教育部長 笹本 厚

5月13日掲載予定のHSさんが、取材時の天候不良により原稿が間に合わないとのことでしたので、私が作成中だったものを急遽掲載することになってしまいました。

そこで、本年度の人事異動により、歴史・文化との関わりも出てきたので、流行を先取りして2017年NHK大河ドラマの主人公「井伊直虎」について、極簡単にまとめてみようと思います。
いろいろと調べていく中で、浜松市さんのホームページにあるものが非常に解りやすいものでした。利用の可否について問い合わせしたところ、問題ないとのことでしたので一部を転載させていただきます。

直虎の誕生

平安時代から、井伊谷(現・北区引佐町井伊谷)を本拠地とし、この地域を領主として治めてきた井伊氏。この井伊氏の22代当主・井伊直盛に、一人の娘が生まれました。この娘が、後に井伊家を断絶の危機から救い、井伊直政(徳川家康を支え続け“徳川四天王”の一人とされた人物)の養母となる、井伊直虎です。
直盛には息子がいなかったため、自身のいとこの亀之丞(のちの井伊直親)をこの一人娘の許嫁(結婚の約束をした相手)とし、井伊家の跡継ぎとするつもりでした

亀之丞との別れ、そして出家

ところが、1544(天文13)年、亀之丞の父・井伊直満とその弟の直義が、井伊家を支配していた今川氏に謀反の疑いをかけられて殺害されてしまいます。さらにわずか9歳の亀之丞も、命を狙われ、身を隠すため命からがら信州(現在の長野県)へ。許嫁から引き離された直虎は出家(注1)し、井伊家の菩提寺である龍潭寺の南渓和尚から「次郎法師」の名を与えられました。

亀之丞の帰郷と、跡継ぎ「虎松」の誕生

1555(弘治元)年、亀之丞が11年ぶりに井伊谷へ帰ってきました。
しかし、出家していた次郎法師は結婚することができません。
亀之丞は次郎法師の父・直盛の養子となって「直親」と名乗り、井伊家家臣・奥山朝利の娘と結婚。その後、待望の男児「虎松」(後の井伊直政)が誕生しました。

肉親や家臣たちの相次ぐ戦死

しかし、それと前後して、井伊家では、悲劇が立て続けに起こりました。
1560(永禄3)年、今川義元に従って尾張(現在の愛知県西部)へと出陣した直盛が、桶狭間の戦いで戦死。さらに、2年後の1562(同5)年には、井伊家当主を継いでいた直親が、今川氏真から“徳川家康に味方をしている”と疑われて殺害、さらに曾祖父直平や、多くの家臣たちが相次ぎ戦死…。こうして井伊家を継ぐ男子は、わずか4歳の幼い虎松ただ一人となってしまいました。

女城主「井伊直虎」の誕生

1565(永禄8)年、次郎法師は、幼い虎松、そして井伊家を守るため、南渓和尚と相談し、大きな決断をしました。
「直虎」と名乗り、井伊谷城の城主となる決心を固めたのです。
こうして“女城主”となった直虎ですが、すぐに困難が待ち受けていました。今川氏真が、井伊谷周辺に徳政令(注2)を出したのです。これを受け入れてしまったら、井伊家の家臣や領内の経済は混乱してしまいます。

領内を徳政令の混乱から救った直虎。しかし…。

直虎は、井伊領を守るため、この徳政令を2年間引き延ばすことを決断します。しかし、今川氏の圧力に対抗しきれず、2年後、遂に徳政令が発布。直虎は城主の座から追われ、家老の小野但馬守が井伊領を支配します。
直虎は城を出て、母が暮らす龍潭寺へ身を寄せます。8歳の虎松は命を守るため鳳来寺へ預けられ、虎松の母は頭陀寺村(現・南区頭陀寺町)付近に拠点を持つ松下一族の松下清景と再婚。こうして、井伊家の一族は離れ離れになりました。

虎松を徳川家康に合わせ、家臣に

直虎や南渓和尚たちは、井伊家を復活させるため、遠江の領有を安定させていた徳川家康に従うことを決めました。
1575(天正3)年、鳳来寺に預けていた虎松を連れ戻し、彼の母の再婚先である松下一族のもとへ養子に入れました。そして、松下氏の力を借りて、浜松城にいた家康へのお目見え(注3)を計画します。家康は、15歳の虎松を小姓(注4)として迎え入れ、万千代という名を与え、井伊谷に領地を持つことを許しました。こうして、直虎は、井伊の家名を再興させることができたのです。

今なお、注目を集める直虎

井伊家断絶の危機を寸前で乗り切った直虎。家康の家来として、また井伊家を再興するために活躍する万千代を見守りながら、1582(天正10)年8月26日、その生涯を閉じました。40数年の生涯だったといわれています。
井伊家歴代当主としては数えられていない直虎ですが、井伊家の歴史と戦国時代の遠江を語る上で欠かすことのできない人物として、今なお注目されています。

注1「出家」 俗世間を離れ、髪を切り落とし僧侶や尼となり、仏道の修業を行うこと。
注2「徳政令」 民衆を救うため、大名などが寺社や商人へ借金の帳消しを求めること。このときの徳政令は、領内を混乱させることで井伊家の力を弱めることが目的であったといわれている。
注3「お目見え」 身分の高い人に会うこと。
注4「小姓」 武家で主人の身の回りの世話をする少年

転載終わり

藤の咲く庭にある龍潭寺東門
龍潭寺東門

緑の庭に続く龍潭寺庫裡
龍潭寺庫裡

 

池に小高い丘があり、緑の丸く整えられた木々が石と共に並ぶ龍潭寺小堀遠州作庭園
龍潭寺小堀遠州作庭園

龍潭寺のある木の板に書かれた井伊家系図
龍潭寺井伊家系図

 

直政と西郷の局

万千代(虎松)は徳川四天皇として大活躍し、井伊家当主として井伊直政と名乗るようになりました。
また、その娘政子は徳川二代将軍秀忠の弟松平忠吉に嫁ぎました。二代将軍徳川秀忠と松平忠吉の生母(政子の姑)が、徳川家康に寵愛された西郷の局です。

西郷の局(於愛の方・宝台院)の説明した案内図の写真

案内図

寄贈者

  • 構江老人会
  • 粕谷 重範
  • 中山 定雄
  • 石田 広太郎
  • 石田 正人
  • 増田 忠美

西郷の局(於愛の方・宝台院) 生誕の地

徳川二代将軍秀忠公の御生母で、実父は遠州掛川在、 戸塚に住した郷士、戸塚五郎太夫忠春、実母は三河五本松城主、 西舞弾正左衛門正勝の娘で、戸塚家に嫁いだ。
天文二十三年、戸塚五郎太夫忠春は大森の戦で戦死した。
その後、於後の母はやむを得ず於愛を連れて、服部千太夫正南に再嫁したが、於愛もまた外祖父、西端正勝の嫡男、西郷義勝に 嫁ぎ二児をもうけた。
しかし元亀二年三月四日、夫の義勝が竹広の我で戦死したので伯父西郷清員の養女となった。 その後、浜松城に出仕して家康の目にとまり側室となる。
家康と西郷の局の子は

  • 二代将軍秀忠公天正七年四月四日生
  • 尾張藩主忠告公天正八年九月七日生

天正十七年五月十九日、西郷の局、年三十八にて成府城内で病死する。
法名、宝台院殿松誉貞樹大姉、駿府龍泉寺に葬られる。
秀忠公、二代将軍になると勅許を得て、従一位一品大夫人を送る。
龍泉寺、西郷局の法名をとり、寺名を宝台院と改め、三百石の寺領を与えられる。

西郷の局(西郷局)とは

愛知県豊橋市石巻中山町の五本松城主であった西郷正勝の孫にあたり、通称はお愛の方といいます。西郷の局の母親である正勝の娘は、遠江西郷村(掛川市上西郷)の名家である戸塚忠春と結婚し、永禄4年(1561年)西郷の局が生まれました。西郷局は、15歳の時、母方のいとこの西郷義勝の後妻として嫁ぎ、一男 一女を生みましたが夫の義勝は武田氏との戦いで戦死してしまいました。

天正 6年(1578) 3月、浜松城に帰る途中に家康が、養父である西郷清員宅で休息した際に、その美貌が家康の目にとまり、側室となりました。西郷局17歳の時でした。西郷の局は美人で性格も良く、家康に愛されたのみならず、家臣や侍女たちからも愛されていたといいます。
特に西郷の局自身が強度の近眼だったため、盲目の女性を慈しみ、寺の西側に屋敷を造って保護するなど、弱者をいたわる人柄を家臣も慕っていたようです。
西郷の局は家康に仕えて 1年後の天正 7年(1579) 4月、3男・長丸(のちの 2代将軍秀忠)を生み、さらに翌年には、4男・福松丸(のちの松平忠吉)を生みました。

秀忠誕生後は、正式な側室として母方の家名と地名から、西郷の局と名乗っています。
西郷の局は、家康が浜松から駿府に移って間もなくの天正17年(1589) 5月、28歳の若さで亡くなりました。

注 西郷の局の生誕については1552年説も有ります。

龍華院大猷院霊屋(りゅうげいんたいゆういんおたまや)

付け足しですが、秀忠の子、3代将軍家光の霊廟が掛川市立第一小学校北側の小高い丘にある龍華院大猷院霊屋です。明暦2年(1656年)、嗣子のない掛川城主北条氏重が三代将軍家光の霊を祀り、家の存続を願ったといわれる三間四方の方型造りの霊廟です。文政5年(1822年)に掛川城主太田資始により再建され、現在、県の有形文化財に指定されています。
なお、この場所は1500年頃に今川氏の重臣、朝比奈泰煕により最初の掛川城がつくられた場所でもあります。掛川城は、その後現在の位置に移され、1590年に山内一豊により天守閣が建てられました。

龍華院大猷院霊屋を説明した案内図

龍華院大猷院霊屋の全体写真

 

来年の大河ドラマを見るに当たり、予備知識としていかがだったでしょうか?
「直虎ゆかりの浜松」を応援して「西郷の局ゆかりの掛川」もPRしていきましょう。

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