総合トップ記事第618回「朝の散歩で考えたこと」

第618回「朝の散歩で考えたこと」

2016年8月19日更新

掛川市行政課長 高鳥康文

私には、この10年来、継続していることがあります

それは、朝の散歩です。
私の住んでいる住宅地は、市街地に近い割には周りに自然が多く、家の前には、円形広場と比較的大きな池がありますので、池の周りを毎朝20分ほどかけて3周します。
散歩を始めたきっかけは、人間ドックの際に運動不足と告げられたことですが、池の周辺からは鳥のさえずりや木の葉のざわめきが聞こえ、風向きによっては遠くから天竜浜名湖鉄道の音なども響いてきて、思いの外、気持ちのよいものです。

新緑に囲まれた池の周辺の散歩道の景色

自然に囲まれて歩いていると、常に五感を刺激され、心がリフレッシュされます。また、日中のほとんどを室内で働く私にとって、四季を実感することのできる貴重な時間でもあります。
ところで、最近、散歩をしながら考えさせられたことがあります。
それは、散歩道の周辺で見かけるゴミのことです。
私が歩く散歩道は、意外に人通りが多く、時折ゴミが落ちていることがあります。犬の糞、ハンバーガーの包装紙、空き缶、ペットボトルなどに加え、夏には、前の晩に楽しんだのか花火の残骸が落ちていることもあります。きれいに整備された散歩道ですが、毎日歩いていると目に入ります。

先日、道端に落ちていたお菓子の包装紙を拾いながら、ふと、「汚さの度合いとは何によって測るのだろうか」と考えました。
以前は、道に犬の糞が落ちていれば汚いと感じ、その場所を避けて歩いたものです。靴の裏に付けば臭うし、なかなか剥がれません(尾籠な話ですみません)。しかし、最近では、汚いという感じが全くなくなったわけではないものの、以前ほど犬の糞が汚い物とは感じなくなりました。

犬の糞は、時間が経てば、だんだんと溶けて、そのうち消えてなくなります。一方、空き缶類やペットボトルはどうでしょうか。何日経っても自然にかえって行くことはありません。犬の糞のように臭うわけでもなく、靴の裏が汚れるわけでもないですが、考えようによっては、犬の糞よりも汚いのではないかと感じるようになりました。
一見汚くないのに汚い物。また、その反対に一見汚いのに本質的にはそうでないもの・・。
地球環境にとって汚いとは、おそらく、このペットボトルのように自然の浄化作用の及ばないものであるということを改めて考えさせられました。

「西洋人は、衛生面に無頓着な民族である。パリを始めとするヨーロッパの街は、一見美しいが、セーヌ川のほとりなどは、犬の糞で歩けたものではない。・・・」ふと、学生時代に読んだ本の一節を思い出しました。
犬の糞に無頓着な反面、ゴミのリサイクルや環境保全にはとても厳しい視点で臨む西洋人と、犬の糞や製品の完成度・美しさに気を配る一方で、ゴミの放置や有害物質の放出などに対しては、やや危機感を欠く日本人。「汚い」ということに対する感じ方の違いが際立っていると思いませんか。

現在、掛川市では、環境日本一を目指して、ゴミの減量化に取り組んでいます。改めて、掛川市民としてゴミの減量化や環境問題に向き合わなければならないと感じました。
健康のために始めた散歩は、少しだけ私に環境問題を考えるきっかけを与えてくれました。
このレポートを読んでくださったみなさんにも、是非、朝の散歩をお勧めします。
健康によいのはもちろんのこと、きっと、人それぞれ何かを考えるきっかけになると思います。

2.jpg
四季折々の自然が実感できるお気に入りの風景です

このページと
関連性の高いページ