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第624回 遠江射場について

2016年9月23日更新

掛川市水道総務課長 松下仁

旧大東町の南部(浜野地内)に戦時中大砲などの弾を試験的に撃って、その性能であるとか威力などを記録し、新しい砲弾を造るにはどうしたらよいかなどの研究をしていた射場がありました。現在では、その面影はほとんどありませんが、砲座や指令所、トンネルだけが残っているだけです。
地元の人から当時の射場の事を聞き取った記録本がありましたので、この射場の歴史について少しだけ触れてみたいと思います。

私が中学校当時、昭和44年頃だと思いますが、部活動でよく海まで走らされた思い出があります。上級生から「南の塔まで往復だ」との指示があり、畑の中の農道を走り松林の中のコンクリートの塔まで行き、確か4、5階くらいあったと思いますが、塔の階段を駆け上がり、また学校に帰ってくるコースを走っていました。
このコンクリートの塔が、記録によると、遠江射場の風速塔との事でした。場所は現在の国道150号付近になり、このバイパス道路ができるときに取り壊された様です。

遠江射場の歴史

  • 昭和13年に第1次接収として、竜今寺川から東は新野川付近までの範囲が約11キロメートル接収された。
  • 昭和15年には、各種野砲の配置、高射砲の水平射ちなどの必要から、第2次接収として当時の佐倉村の筬川まで拡張された。
  • 昭和17年には、更に東に拡張し、当時の白羽村の海岸地帯が接収され、東西16キロメートル総面積984ヘクタールに及ぶ広大な海岸砂地帯が試射場に変わる事となった。

現在の国道150号から海岸線までの広大な海岸砂地帯は、耕作していた農地を半強制的に接収され、射場として陸軍が使用する事となった。また、射場の主な施設は、西端の浜野地内に集中していた。
昭和20年8月まで射場として使用されていた土地は、その後地元住民や開拓組合に払い下げられ、農地として海岸畑作を中心に現在も活用されている。
また、旧射場用地には多くの施設があり、戦後の施設利用の最大の例が睦浜中学校の設置であります。旧兵舎を改造して開校されたこの中学校は、現在の大浜中学校の場所に鉄筋校舎が建てられるまでの約9年間に渡り使用されていた。
この他、射場に関連したことは数多くあったに違いない。この遠江射場は太平洋戦争当時の遺産であるが、地元の人にしか知られていないようである。戦後70年が経過したが、ここに射場があったことを是非残していくことが必要ではないか。・・・・・

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