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第668回 「ぺーザロの白鳥」

2017年6月23日更新

掛川市行政課長 高鳥康文

2回目の投稿となる今回の寸感ホットページでは、ロッシーニを取り上げたいと思います。

ロッシーニ歌劇場管弦楽団による「東日本大震災復興支援コンサート」バチカンより日本へのチラシ

掛川市では、イタリアのペーザロ市と姉妹都市協定を締結しています。この縁のきっかけとなったのは、平成27年3月に掛川市で開催された、ロッシーニ歌劇場管弦楽団(本拠地:ペーザロ市)による「東日本大震災復興支援コンサート」でした。昨年9月20日には、両市の姉妹都市としての親交がスタートし、今年に入って3月15日には、生涯学習センターにおいて、ロッシーニ歌劇場管弦楽団の「祈りのレクイエムコンサート」が開催されました。同時に、バチカン市国のフランチェスコ・モンテリーズィ枢機卿が「輝くかけがわ名誉応援大使」に任命されました。今後も、両市は、姉妹都市交流を通じて、経済、文化、観光、スポーツの分野における交流を深めていくことでしょう。
ペーザロ市は、イタリア中部地方マルケ州のペーザロ・エ・ウルビーノ県の北東部に位置する人口約95,000人の都市で、マヨリカ陶器で知られ、浮き彫り細工やエナメル加工の銅製品、家具の製造などが盛んだそうです。
ここまで読み進んだ読者の中には、「ロッシーニと姉妹都市提携にどんな関係があるの?」と思われる方もいらっしゃるでしょう。そう、両者には大いに関連があるのです。私にとって・・というより世界中の音楽ファンにとって、ペーザロ市といえば、イタリアオペラ史上に燦然と輝くジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニの生誕地として名高い都市なのです。先ほど触れた「祈りのレクイエムコンサート」においても、彼の代表作のオペラ「セビリアの理髪師」の中で主人公のフィガロが歌うアリア「私は町の何でも屋」や、運動会等で誰もが一度は耳にしたことのある「ウィリアム・テル」序曲が演奏されていました。

ジョアキーノ・ロッシーニ肖像画
ジョアキーノ・ロッシーニ

ロッシーニは、1792年にペーザロで生まれました。8歳でイタリア北部のボローニャに引っ越し、ボローニャ音楽学校で音楽の基礎を学び、18歳の時にオペラ作曲家としての第一歩を踏み出しました。24歳の時、彼の代表作「セビリアの理髪師」(1816年)で大成功を博し、ヨーロッパ中に、その名声が広がりました。その後も次々に大ヒットを飛ばし、オペラ作曲家として不動の地位を築きました。ペーザロ出身で、陽気でお茶目、しかもなかなかの美男子で女性にももてたロッシーニは、人々から、「ペーザロの白鳥」というニックネームで呼ばれ、親しまれていたそうです。ロッシーニの人気は相当なものだったようで、かのベートーヴェンでさえ、その人気ぶりに嫉妬していたという逸話が残っているほどです。
また、尽きることなくアイデアが浮かび、驚くほど筆が速かったとされる彼ならではのこんなエピソードもあります。ある日、ベッドの上で作曲をしていたロッシーニは、曲がほぼ完成したころ、ベッドから五線紙を落としてしまいました。普通の人ならば拾い上げて書き続けるところですが、そこは、名うての速筆で知られたロッシーニ、ひと味違う反応をします。拾うのを面倒に思った彼は、なんと真っ白な五線紙に向かって新たに曲を書き始めたというのです。偉大な人物に特有な作り話のようですが、遅筆な私にとっては何とも羨ましいエピソードです。

彼の作風についても紹介しておきましょう。
ロッシーニの音楽は、軽快で洒脱な曲想に溢れているのが特徴です。個人的には、晩年に書かれた「スターバトマーテル」など、音楽的に深みのある宗教曲も好きですが、何といっても彼の真骨頂は、数々のオペラにあります。有名な「セビリアの理髪師」の序曲などはその最たるもので、曲が始まったとたん、明るく軽快な曲調に魅了されてしまいます。そして、次から次へと楽しいメロディーが表れ、それらが幾重にも組み合わさって何度も反復しながら、曲はクライマックスを目指して高潮していきます。ここでロッシーニならではのマジックが登場します。
ロッシーニクレッシェンドです。
音楽を演奏される方は、音楽記号としてのクレッシェンドをよく御存じだと思います。おなじみの「< 」の記号です。クレッシェンドは、「だんだんに強く」を意味しますが、ロッシーニの場合は、ひと味もふた味も違います。音の強弱に加え、スピード感「アッチェレランド=だんだん早く」が追い打ちをかけるように曲を盛り上げ、聴く者に手に汗を握るような爽快感と緊張感を与えるのです。
これをお読みになり、もしも興味をもたれた方がいましたら、是非ロッシーニの音楽を聴いてみてください。そして、ロッシーニクレッシェンドを体感してみてください。

最後に、音楽史の謎の一つとされるロッシーニの引退について書きます。
次々に名曲を発表し、作曲家として順風満帆な人生を送っていたロッシーニでしたが、不思議なことに、その順調な作曲家人生に突然ピリオドを打ち、「ウィリアム・テル」を最後に37歳で引退してしまいます。そして、76歳で亡くなるまで、ピアノ曲や歌曲など私的な作曲活動を除いて音楽会の表舞台から身を引き、残りの人生は悠々自適の年金生活を送りました。健康面の問題、次世代の作曲家の台頭、大好きな料理を思う存分に楽しむためなど、引退の理由については諸説ありますが、明らかではありません。

ロッシーニは、大の料理好きとしても知られた人物でした。牛フィレ肉のステーキにフォアグラとトリュフのソテーを添えたロッシーニ風ステーキなど、彼の名前がついた料理があるほどの美食家であったそうです。そうだとすれば、料理三昧の生活とトリュフを探す豚を飼育するために引退したとする、冗談のようで、しかし、いかにもロッシーニ的な理由も、案外、的を射ているのかも知れません。

姉妹都市提携を機に、ペーザロ市にゆかりのあるロッシーニについて書こうと思い立ち、今回のテーマとしました。現在、掛川市では、市政の目標として、「教育・文化」「健康・子育て」「環境」の3つの日本一を掲げています。私が今回取り上げたのは、そのうちの音楽文化です。音楽は、社会経済分野のように、直接、私たちに対して物的な豊かさや経済的な恩恵を与えてくれるものではありません。しかし、音楽は、私たちの心の琴線に触れることによって、生きることの喜びや人に対する愛情の大切さを教えてくれ、人生を豊かにしてくれるものだと思います。

私の稚拙な文章が、何人かの方々にとって音楽を聴くきっかけとなり、文化振興の一助にでもなればと期待しつつ、筆を置きます。

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