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第691回 掛川駅周辺の隠れた観光スポット

2017年10月20日更新

掛川市危機管理課長 浦野正守

掛川駅からお城までの間には、地域の方に愛され、大切にされている場所が沢山あります。
観光ガイドには載らない「知られざる観光スポット」を紹介します。
ぜひ、一度足を運んでみて下さい。

第1回として、まず自分が住んでいる地域で、区全体で様々な活動に取り組みながら、地域資源を守り育てている場所から、紹介していきます。

パワースポット編 1

1 懸川緑町水天宮(緑町)掛川市城下1-11

緑町では、区民全員で月例祭の準備や清掃などを行うことや中老や青年が、毎週土曜日の午前中に集まり様々な活動を行っています。由来を書いた看板の設置、奉納のぼり旗を立てる台の建設、手水舎の設置。社や屋根の塗装、社内部の装飾などを実施してきました。
現在では、毎年70本近くののぼり旗が奉納されるようになり、毎月の参拝者も増えました。

楠木の大木の下に鎮座している緑町水天宮は、明治18年に緑町で紙店(かみだな)を営む松本直三郎が松本家個人の鎮守として、東京都中央区蛎殻町にある東京水天宮の御分霊として、勧請しました。霊験あらたかなため、諸人の参拝が多く、昭和8年に緑町区に譲渡され、平成3年土地区画整理事業により、現在の地に御遷座され、広く地域住民の心の拠として参詣されています。
水天宮としては、県下には焼津市小川町の石津水天宮があります。

主神

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、安徳天皇、

配神

高倉平中宮(建礼門院、平徳子)、二位の尼(平時子)

社紋

椿紋

御神徳

水と子供を守護し、水難除け、漁業、海運、農業、水商売、安産、子授け、子育て

御祭礼

月次祭:毎月五日、例大祭:五月五日

案内看板と奉納のぼり旗が立っている様子

くすのき公園内、奥にのぼり旗が立っている

鳥居とお社の正面からの写真

区民手作りの手水舎
「区民手作りの手水舎」
人感センサーで、新しい水が出ます。

くすのき公園全景
「くすのき公園全景」

 

月次祭の様子

毎月5日の月次祭では、のぼりや提灯、幕などを飾り、お供物を捧げます。10月は、掛川祭りでしたので、普段閉めてある格子戸を開けておきました。

お社、両側に緑町水天宮ののぼり旗がたっている

お社正面からの写真、両側にのぼり旗、奥に提灯が2つついている

お社の中にお供え物が祀られている神棚

格子戸を開けているお社の写真

格子戸が開けられたお社がライトアップされている様子

例大祭の様子

毎年5月5日は、例大祭です。区民の多くが参加して、式典が行われます。
式典後に、奉納された各家庭やお店の名前が入ったのぼりを交換し、1年間掲げます。
のぼりの奉納を希望される方は、緑町区長まで。(1本3,000円)

篠笛を吹く2人の神職

神事を執り行う神職

神事を眺める人々の様子

のぼりを交換する人々

のぼりが並んでいる様子

水天宮で使っていた自動おみくじ箱(緑町公会堂で保管)

昭和八年当時1回5銭でおみくじが出る、自動おみくじ機。
右上部の投入口のお金を入れると、下の取り出し口にお神籤が出てきます。
現在のコインでも反応する重さを調節すれば動きます。
1回に50枚以上をセットできます。

自動おみくじ機

自動おみくじ機のお金投入口

自動おみくじ機の内部

資料

水天宮は、福岡県久留米市の久留米水天宮を総本宮とし、日本全国にある神社です。

東京水天宮

東京都中央区日本橋蛎殻町にある水天宮は、福岡県久留米市にある久留米水天宮の分社である。
江戸時代より安産・子授けの神として人々から厚い信仰を集める。妊婦や子供を授かりたい夫婦あるいは無事出産できた夫婦などが、安産や子授かりの願掛けやお礼参りなどで人並みが途絶えることがない。

歴史

久留米の水天宮は、久留米藩歴代藩主(有馬家)により崇敬されていたが、文政元年9月、9代藩主有馬頼徳が江戸・三田の久留米藩江戸上屋敷に分霊を勧請した。これが江戸の水天宮の始まり。
藩邸内にあったため一般人の参拝が難しかったが、信仰者の多いかったため、幕府の許可を得て、毎月5の日に一般開放された。その人気ぶりは「情け有馬の水天宮」という地口も生まれたほど。
有馬家の会計記録には「水天宮金」という賽銭や奉納物などの売上項目があり、安政年間では年間2000両に上り、財政難であえぐ久留米藩にとって貴重な副収入だった。
明治4年、有馬家屋敷が移転することになり赤坂に遷座したが、明治5年、有馬家中屋敷のあった現在の日本橋蛎殻町二丁目に移転した。

2 三光稲荷(大手町)

三光稲荷の鳥居とお社

山内一豊が掛川城主として文禄年間に城と城下町の大改修を行ったが、ちょうどこの時期に、豊臣秀吉の命で伏見桃山城の築城に加わった縁で、大手廓と大手厩(馬屋)の鎮守として伏見稲荷を勧請したのが始まり。
以来、城主や家中の者が、城より外出・旅行などする時には、道中の安全と業務の達成を祈願し、帰城の際は無事のお礼に参拝された。明治時代となるとり、廃城で大手の厩も無くなったが、この地域に住み着いた人々が営む商売繁盛などを祈願し、多くの人たちから崇められ、守り伝えられてきた。
平成5年に駅北区画整理事業に伴い、現在の地に移転鎮座した。

ご祭神

宇迦之御魂神(ウガノミタマノカミ)

御神徳

旅行安全、業務安全、家内円満、商売繁盛、農耕豊作、興行成功、出世大成 など

御祭礼

初午祭:二月初午、月次祭:毎月二十一日

出現のお狐様

三光稲荷にあるお狐様の姿が浮かび上がった飛び石

平成5年に駅北区画整理事業で、現在の地に移転されたが、この時、飛び石の一つに墨絵のようなお狐様の姿が浮かび上がった。

この飛び石は境内に柵で囲い展示してあるが、現在は狐の姿は見ることができない。

三光稲荷の由来

南北朝時代の延元元年、後醍醐天皇が京都の花園院から吉野へ御幸をされる12月21日の深夜、暗闇から難渋され途中伏見の稲荷大社の前で、

ぬばたまのくらき闇路に迷うなり
われにかさなんみつのともし火(三の光)

と、御製を詠まれ、道中の安全と神助を祈願すると、不思議に明るい一群の雲が現れ御幸の道を照らして無事に大和へ導かれたという故事があり、伏見大社の本殿の脇には御製の碑が、吉野山金峯山には「導稲荷」がある。こうした御利益から大手厩の構内にお祀りされました。

位置図

1.水天宮、2.三光稲荷、3.ポスト(明治)、4.ポスト(昭和)、5.ポスト(平成)の位置図

普段、何気なく街中を歩いていて、つい見落としてしまっているものの中に、面白いものが、いっぱいあります。皆さんも探してみては。私たちは、博物館や美術館の中で生活しているかも。

施設編 1

掛川城周辺で、ポストの歴史として、歴代3種類の郵便ポストが見られるぞ。
全てのポストが現役で、郵便物を投函できます。

1 大手町(石山元平商店前)

「黒塗柱箱型」

黒塗柱箱型

郵便創業の翌年、明治5年に郵便が全国に実施され、たくさんのポストが必要になり、高さ123センチメートルの角柱型の「黒塗柱箱」が設置されました。

近代郵便制度が始まって、まだ1年であり、「郵便」という言葉が一般には馴染みが薄かったため、ポストに書かれた「郵便箱」という文字を「垂便箱(たれべんばこ)」と読み違え、公衆便所と勘違したというエピソードが残っています。

(ひとこと)手入れが行き届かず、黒色が剥げてしまっていますが、現役です。あまり知る人もなく、使う人がいるのかも解りません。存続が心配です。

2 松尾町(杉村竹材店前)

「郵便差出箱1号」(丸型)

郵便差出箱1号(丸型)

昭和20年に終戦を迎え、物資の入手が軌道に乗るようになった昭和24年から新しい鉄製ポストとして実用化されました。
本体:高さ135センチメートル 直径40センチメートル
根石:高さ20センチメートル 直径60センチメートル

(注)明治34年、火事に強い鉄製の「赤くて丸い」ポストの時代が始まります。「赤色」に塗ったのは、ポストの位置を解りやすくするためでした。また、かどを丸くして通行のじゃまにならないようにしました。

(ひとこと)子供の頃から、一番慣れ親しんだポストです。
最近は、掛川でも見る機会が少なくなって残念です。是非残してもらいたい一台です。

3 連雀(昭和堂前)

「郵便差出箱1号」(角型)

郵便差出箱1号(角型)

昭和45年から丸型の後継ポストとして、大量の郵便物の差し出しや取り集め作業のスピードアップに対応し角型になりました。
本体:高さ80センチメートル 幅37センチメートル 奥行51センチメートル
脚柱:高さ59センチメートル 直径17センチメートル

雑学(初めてのポスト)

最初のポストのイラスト

日本で郵便制度が始まった明治4年に、最初のポストも誕生しました。
脚付の台に四角い箱をのせた木製ポストは、書状(手紙)を集める箱であることから「書状集め箱」と呼ばれ、東京、京都、大阪、東海道宿駅に設置されました。

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