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第711回 郷土の文化財を守ろう~松ヶ岡プロジェクトを通して~

2018年2月2日更新

掛川市社会教育課長 榛葉貴昭

吉岡大塚古墳、前方後円墳。上空からの写真。
吉岡大塚古墳
獅子舞、獅子3頭が舞っている
獅子舞かんからまち
大日本報徳社。門を正面から撮影している
大日本報徳社

文化財は、地域の歴史や文化的伝統の理解に欠くことができないものであり、将来の文化発展の基礎をなすものです。
また、文化財は地域の人々に誇りと愛着をもたらす精神的拠り所であり、地域の財産です。人は、文化財に接することで、人生をより豊かなものにすることができます。

平成29年度現在、掛川市の有形・無形文化財は、国指定5件、県指定31件、市指定70件で合計106件あります。これらの文化財は、文化財の所有者や保存団体、地域住民等の尽力と文化財保護行政機関によって保護されてきました。

一方、我が国の社会状況は急激に変化し、過疎化、少子高齢化等の進行により地域力の衰退が懸念されています。これは、受け継がれてきた豊かな伝統や文化の消滅の危機でもあり、文化財継承の担い手を確保し社会全体で支えていく体制づくりが急務な状況です。
文化財の継承と地域社会の将来との関係は極めて密接なものであり、危機に瀕した文化財について、今後多くの人々の参画により、未来へ継承する方策を至急検討する必要があります。
文化財を守ることは単に「過去の遺物」を守るのではなく、地域と我が国の歴史、文化を守ることだということを、多くの方々に知っていただきたいと思います。

 

貞永寺。画面一面に平屋の寺の写真
貞永寺

掛川城御殿、全体が写る様に上空から撮影している
掛川城御殿

横須賀城跡。石垣で出来た階段が幾つかあり、その周りも石垣を積み上げている
横須賀城跡

 

松ヶ岡長屋門。大きな屋根付きの門
松ヶ岡長屋門

このような状況の中、掛川市は現在、市内十王にある市指定建造物、松ヶ岡(旧山﨑家住宅)を修復整備し、後世まで永く守り伝えていく「松ヶ岡プロジェクト」に取り組んでいます。

松ヶ岡(旧山﨑家住宅)は、江戸末期の安政3年(1856年)、当地の豪商・山﨑家6代目が建てた主屋、長屋門、中門をはじめとする一群の建築物です。その多くが建築当時のまま残り、いずれも厳選された第一級の材料をもって丁寧な細工によって建築されています。多くの赤松を取り込んだ庭園とともに、近代的和風建築の代表として高い文化財的価値を誇っています。(庭の赤松のゆえに建物庭園は、永く「松ヶ岡」と総称されてきました。)

 

1 松ヶ岡の歴史

山崎千三郎と山崎覚次郎の写真

松ヶ岡を建築した山﨑家は、伊達方寺ヶ谷から出て、油商で財を成し、西町に移り住み万右衛門(まんえもん)を名乗ったのが始まりです。当主は代々万右衛門を名乗り、約160年前に現在の場所に移りました。
山﨑家は代々掛川藩の御用達を勤め、大きな財産を築きました。
4代目万右衛門は、号を晨園(しんえん)または以善堂(いぜんどう)と名乗り、藩校(のちの「教養館」)の設立に多額の援助をするなど、地域の教養・文化事業に尽力し、明治初期の8代目当主、千三郎は、地域社会の求めに応え、初代掛川町長に就任する明治22年(1889年)前後を通じ、鉄道や道路の整備、大井川疎水の計画、製茶工場建設、掛川銀行の設立などに私財を投じ、地域の近代化に多大な貢献をしました。
また、甥の覚次郎は、日本における貨幣論、銀行論の先駆者であり、東大名誉教授、初代日本金融学会理事会長を務めました。その著作は学生や研究者の教科書、参考書となり、覚次郎は日本の近代金融の基礎を築いた、まさに、「日本経済の父」ともいえる人物です。
このように松ヶ岡(旧山﨑家住宅)は、我が国と地域の近代化、発展に貢献した多くの偉人を輩出しました。
さらに、明治11年(1878)には明治天皇の行在所(あんざいしょ)となったことでも、歴史的な意義を持っています。

 

棟札

平成25年度の文化財調査で棟札が発見され、主屋が江戸時代後期の安政3年(1856)に建築されたことが明らかになりました。また、明治時代には別棟が増築され、その後も改修が繰り返され、現在の姿となっています。
江戸時代後期の良質な屋敷構えを残しているだけでなく、近代の格式高い空間を合わせ持つ松ヶ岡は、文化財的価値が高い建物です。また、高級な木材や建築技術が優れていたことを示すとともに、それらを揃えることができた山﨑家の財力の大きさを伺うことができます。

 

中門と主屋。手前に広い庭がある
中門と主屋

表座敷。広い畳の部屋。奥には床の間があり壁には掛け軸を飾っている
表座敷(玉座)

奥座敷。こじんまりとした畳の部屋。床の間があり、壁には掛け軸を飾っている
奥座敷

 

主屋、長屋門、米蔵、西蔵、奥蔵、納屋は、江戸時代後期に建築され、奥座敷、風呂・便所棟、二階屋の1階部分は明治時代に建築されました。
また、2階部分、北蔵、味噌蔵、金庫蔵は、昭和期に建築されています。

庭園。木が何本もあるが、手入れが綺麗にしている
庭園

松ヶ岡の名の由来となっている、十数本のアカマツがある庭も江戸時代後期に築かれました。屋敷周りには堀がめぐらされていますが、西側の堀は庭園に取り込まれ、今は池となっています。奥座敷は堀の上に増築されており、その時に堀を池にしたと考えられています。奥座敷の下にはレンガ造りのトンネルが通り、堀と池とを繋げています。

 

このように、松ヶ岡(旧山﨑家住宅)は、掛川市が誇る貴重な文化財であり、公共の財産として永く後世に伝えなければならないものです。
松ヶ岡を保存することで、多くの市民が、歴史的建造物に今でも息づく高い精神性と豊富な歴史に触れることができ、人々の豊かな人間形成に寄与することができます。
これらのことにより、松ヶ岡は平成28年2月22日、掛川市指定有形文化財(建造物)に指定されました。

平成30年1月13日には、日本文学研究者のロバート・キャンベル氏が本市で御講演され、「江戸時代後期、掛川藩の藩校が“教養館”と呼ばれたことが我が国で“教養”という言葉が使われた最初であり、その藩校の建設、運営には松ヶ岡の山﨑家の多大な支援があった。」ということをご紹介いただきました。
藩校は、農民、商人の子弟にも門戸が開かれており、このような歴史が、本市の好学の風土醸成に大きく寄与していると考えます

2 松ヶ岡プロジェクトの取組

松ヶ岡プロジェクトは、「松ヶ岡プロジェクト推進委員会」を主体として取り組んでいます。
この委員会は、市教育委員会社会教育課を事務局として、元厚生労働大臣、元城西国際大学学長の柳澤伯夫氏を委員長に、地元住民の方々や各産業界の代表、市議会議員、建築研究会や歴史、文化研究会の方々など、総勢45名の皆様により構成されています。
委員会は年数回開催され、松ヶ岡のPR活動や修復計画、募金活動などについて話し合いが行われます。また、委員会には研究・PR部会、活用・修復部会、募金企画部会が設けられ、毎月1回、活発な議論がされています。
このほかにも、「松ヶ岡を愛する会」の多くの市民の方々が、毎月第4土曜日に清掃活動を行ったり、郷土史家の皆様が松ヶ岡に関する歴史講座「松ヶ岡物語」を市民向けに開催していただいております。
このように、松ヶ岡は、地域の皆様のお力で後世の人々に保存、伝承されようとしております。

今後は、修復のための寄付金募集活動とともに、4代目万右衛門が藩校「教養館」を支援したことに因み、松ヶ岡を「現代版教養館」と位置づけ、「学びの拠点」にしていく取り組みや、国の重要文化財への指定にも取り組んで参ります。

3 ご寄附のお願い

歴史的建造物の修復工事には多額の費用が必要となり、今回のプロジェクトでは松ヶ岡本体とともに、8代目、千三郎が設立した掛川銀行の復元も計画しているため、総事業費は6億円を予定しており、国等の補助金を除くと、市の負担額は3億円程度が予想されます。しかし、市の財政状況は、様々な政策需要に対応するため非常に厳しい状況にあります。
そこで現在、掛川市(教育委員会社会教育課)では、松ヶ岡の修復・活用のため、多くの方々からのご寄附をお願いしております。
すでに、多くの方々からご協力いただき、平成29年12月現在4,100万円あまりのご寄付を頂戴いたしました。しかし、目標額にはまだまだ届かない状況です。
つきましては、プロジェクト推進のため、更に多くの皆様に本プロジェクトの趣旨をご理解いただき、ご寄附をお願いしたいと思います。
ご関心をお持ちいただけた方は、是非とも、社会教育課文化財係にお問い合わせいただくか、下記のサイトをご利用してお申し込みください。

1.松ヶ岡クラウドファンディング

平成30年1月からご寄付に対する返礼品付きのクラウドファンディングを始めました。
掛川市在住の陶芸家徳川浩氏の陶芸品や、掛川市史全3巻、松ヶ岡に関係する掛川特産品など、プレミアムなお礼です。

松ヶ岡プロジェクトのサイト

掛川市の文化財紹介サイト

松ヶ岡や市の文化財のことを、より詳しくお知りになりたい方は、下記サイトをご覧ください。

お問い合わせ先

掛川市教育委員会 社会教育課 文化財係
電話 0537-21-1158
ファックス 0537-21-1222

松ヶ岡(現状) 敷地図と平面図