掛川市納税課長 松浦大輔
前回の寸感ホットページでは、掛川城はじめ、掛川城周辺の二の丸御殿、二の丸美術館、竹の丸、ステンドグラス美術館について書かせていただきました。今回は、その他の掛川駅周辺の名所を歩いて巡ったことについて書かせていただきます
静岡県掛川市観光ガイドブックより
掛川城大手門
まずは、大手門。大手門は、掛川駅から徒歩6分程のところにあります。大手門は、掛川城の表玄関になりますが、天守閣に続いて平成7年(1995)に復元されました。実際は、現在の場所より50mほど南にあったとのことです。
掛川城大手門礎石根堅(そせきねがため)石
大手門には、掛川城大手門礎石根堅(そせきねがため)石という石が展示されていました。説明看板によると、大手門は、二層式の櫓門(桜門)で、大きくて重量のある門のため、傾いたりしないよう基礎工事に工夫が凝らされていました。これが、平成5年(1993)の発掘調査で発見されたとのことです。普段、何気なく通り過ぎていたため、あまり気づきませんでしたが、貴重なものが展示されているのだなと今更ながら思いました。
掛川城大手門番所
大手門を潜ると大手門番所があります。説明看板によると、大手門番所は、城の正門である大手門の内側に建てられ、城内に出入りする者の監視や警備をする役人の詰所でした。嘉永7年(1854)の大地震で倒壊後、安政6年(1859)に再建されたのが現在の建物とのことです。昭和55年(1980)市の文化財に指定されました。平成7年(1995)周辺の区画整理により、本来の位置から約50m北に大手門を復元することにともない、それに合わせて番所を配置し、現在地に移築・復元されました。
三光稲荷(さんこういなり)
大手門番所の裏側には、三光稲荷(さんこういなり)があります。説明看板によると、三光稲荷は、掛川城主山内一豊が、文禄年間に城と城下町の大改築を行った際、大手郭と大手厩の鎮守として伏見稲荷を勧請したものとのことです。
ゲイスベルト・ヘンミィの墓
大手門から東に少し歩くと、ゲイスベルト・ヘンミィの墓があります。説明看板によると、江戸時代、長崎の出島はオランダ、中国との貿易のための窓口でした。出島のオランダ商館では、寛永10年(1633)より毎年1回、寛政2年(1790)からは4年に1回、江戸城で将軍に拝謁して献上品を贈り貿易通商の御礼言上をしていたとのことです。ゲイスベルト・ヘンミィもこのような使節団の一員で、ヘンミィの一行70余人は、寛政10年(1798)のはじめに長崎を出発し、4月に11代将軍家斉に謁見しました。そして5月に江戸を発って長崎に帰る途中、6月5日掛川連雀の本陣林喜多左衛門方に投宿。この地でかねてからの病気が悪化し、6月8日に死亡、天然寺に葬られたとのことです。
龍華院大猷院霊屋(りゆうげいんだいゆういんおたまや)
次に向かったのが、龍華院大猷院霊屋(りゆうげいんだいゆういんおたまや)。ゲイスベルト・ヘンミィの墓からは、7分程歩きます。説明看板によると、この霊屋は、明暦2年(1656)掛川藩主北条氏重が幕府に願い出て、徳川三代将軍家光の霊牌を祀るために建てたものとのことです。当時の建物は、文化15年(1818)3月火災により失われ、文政5年(1822)当時の藩主太田資始により再建されました。昭和29年(1954)1月30日、春日厨子を含め、静岡県文化財に指定されました。
龍華院大猷院霊屋から5分程歩くと、掛川城天守閣があります。天守閣は、日本初の本格木造天守閣として復元されたことで有名ですが、少し離れたところに太鼓櫓があります。太鼓櫓は、城下に時を知らせるための大太鼓を納めてあった建物で、市指定文化財となっています。
掛川城天守閣
太鼓櫓
遠江塚(とおとうみづか)
次に向かったのが蕗(ふき)の門。説明看板によると、この門は、掛川城の内堀(蓮池)のほとりに建てられていた四脚門で、小さいが重要な門であったとのことです。廃城後の、明治5年(1872)に円満寺が買い受けて、現在地に移築しました。蕗の門から、14分程歩くと遠江塚(とおとうみづか)があります。説明看板によると、掛川城主松平隠 岐守定勝の嫡子遠江守定吉が慶長8年(1603)11月11日19歳で切腹自決し、これを供養するために造られた塚とのことです。
遠江塚から掛川駅までは、徒歩9分程。掛川駅を起点に名所を歩いてまわり、約1時間。いい運動になりました。説明看板を丁寧に読みながらあらためて見ていくと、市内には、歴史的に貴重な名所が数多くあり、長い年月をかけて多くの人が関わり、現在の掛川市が築かれてきたのだなと思いました。また、時間を見つけて名所巡りをし、郷土の良さを実感しようと思います。