モデルコース

東海道五十三次「掛川」

モデルコース概要

東海道五十三次は、江戸時代に整備された五街道のひとつで、江戸日本橋から京都三条大橋に至る東海道に置かれた五十三の宿場を指します。
掛川には、「掛川宿」と「日坂宿」の2つの宿場があり、多くの人が往来していました。道中には名所旧跡が多く、浮世絵や和歌・俳句の題材にもしばしば取り上げられ、掛川の「日坂」も浮世絵師歌川広重に描かれています。
歴史を肌で感じながら東海道を歩いてみませんか?
なお、日坂宿本陣跡から小夜の中山公園へ登る箇所(地名:沓掛)は大変傾斜が急なため、車は通れませんのでご注意ください。
歌川広重 「東海道五十三次 日坂」

歌川広重 「東海道五十三次 日坂」

ルートポイント紹介

1

同心橋

原野谷川にかかる橋です。
2

間の宿「原川」・金西寺

原川は掛川宿まで1里18町(約6キロメートル)、袋井宿へ33町(約3.6キロメートル)の位置にある「間の宿」でした。
間の宿では、旅人の休息の場を提供することはできますが、旅籠の営業は許されていませんでした。しかしながら、金西寺の原川薬師と呼ばれる阿弥陀仏へ供えるための薬師餅を売る茶屋や酒屋などが軒を連ね、賑わっていたようです。文化・文政頃の集落戸数は、46軒と伝えられています。
3

松並木

市内の東海道には松並木が一般的に見られる風景でしたが、現在も面影を残すのはここだけです。
4

仲道寺・善光寺

東海道の中間点に位置したため、仲道寺とも呼ばれるようになったそうです。境内には如来堂があり、その阿弥陀仏は坂上田村麻呂の守本尊と伝えられています。
善光寺下は土地が低く、長雨にあうと排水が悪いうえに垂木川が氾濫して東海道が冠水し、川越人足が駆り集められたり、舟渡ししたりすることもあったようです。
5

大池一里塚

江戸日本橋から59里目の一里塚です。
天保14年(1843年)の記録によると当時は松が植えられていたようです。
※一里塚は、慶長9年(1604年)江戸幕府の命により築かれました。
1里(約3.9キロメートル)ごとに街道の両側に5間(約9メートル)四方の盛り土をし、中央に榎や松を植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されていました。
6

大池橋

倉真川に架かる大池橋は、かつて長さ29間(約52メートル)、幅3間1尺(約5.7メートル)の土橋で、橋東側には火防の神「秋葉山」へ通じる秋葉街道の入口として、見上げるような大鳥居が建てられていたと伝えられています。
歌川広重の「東海道掛川」には、大池橋の西側たもとから観た風景が描かれています。
秋葉神社(掛川礼拝所)
7

十九首塚

平将門十九首塚
天慶3年(940年)、藤原秀郷が平将門一門19名を討伐してその首を弔った塚と伝えられています。 
平将門十九首塚
8

掛川宿

東海道五十三次「品川宿」から数えて26番目の宿です。
掛川宿
9

葛川一里塚・馬喰橋

江戸日本橋から58里目の一里塚です。
すぐ脇の逆川に架かる馬喰橋は、かつて長さ23間(約41.8メートル)の土橋だったようです。
10

大頭龍大権現・福天権現道標

大物主命を祭る大頭龍大権現(菊川市大頭龍神社)と大福天という天狗を祭る福天権現(菊川市竜雲寺)への道標です。
掛川から川崎湊(牧之原市)まで続く川崎街道の起点でもあり、大頭龍大権現まで2里(約7.9キロメートル)、福天権現まで1里(約3.9キロメートル)川崎湊まで6里(約23.6キロメートル)の道程でした。
11

石川依平出生地

寛政3年(1791年)に生まれ、長じて栗田土満の門に入り教えを受けました。歌人として名高く、その教えを受けた者10余カ国300余名に及んだといわれています。
12

伊達方一里塚

伊達方一里塚
江戸日本橋から57里目の一里塚です。
天保14年(1843年)の記録によると当時は榎が植えられていたようです。
13

塩井神社

このあたりは潮井河原と呼ばれ、「雄鯨山・雌鯨山」の伝説が残されています。
伝説によれば、八幡宮の神が日坂村の人々が清めをするために塩水が湧き出る場所をつくったというのがこの塩井神社にあたるそうです。
14

事任八幡宮

事任八幡宮
古くから、「願い事のままに叶う」というありがたい神社として、平安時代の清少納言の「枕草子」や鎌倉時代中期の歌人阿仏尼の「十六夜日記」等、多くの紀行文に登場する神社です。東海道を往来する人々が参詣しました。 
事任八幡宮
15

日坂宿

東海道五十三次「品川宿」から数えて25番目の宿です。
日坂宿
16

夜泣石跡・妊婦の墓・涼み松・広重絵碑・馬頭観音

夜泣き石は、高さ3尺(約90センチメートル)、直径2尺(約60センチメートル)の丸石で、弘法大師が刻んだとされる「南無阿弥陀仏」の文字があります。石は明治14年(1881年)に東京で開催された博覧会に出展され、その後国道1号線沿いの小泉屋脇に移されました。現在は夜泣き石のあった場所として碑が立てられています。
周辺には、妊婦の墓・涼み松・広重絵碑・馬頭観音があります。
17

白山神社

お堂は新しく建立されたもので、由来や詳細は不明です。神社の前には、東海道の道標が立てられています。
18

佐夜鹿一里塚・鎧塚

佐夜鹿一里塚は、周辺の言い伝えによる里数や当初の東海道ルートを考えて56里目という説があります。しかし、元禄3年(1690年)の「東海道分間絵図」では52里に相当し、天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」では54里に相当します。
東海道のルートは時代と共に若干の変更もありましたが、一里塚の位置が移動したという記録はなく、正確なことは分かっていません。
近くに鎧塚があります。建武2年(1335年) 北条時行の一族名越太郎邦時が世にいう「中先代の乱」のおり京へ上ろうとして、この地で足利一族の今川頼国と戦い、壮絶な討ち死にをしました。頼国は、名越邦時の武勇をたたえここに塚をつくり葬ったと言われています。
市指定文化財 史跡
19

西行法師歌碑

西行法師歌碑
「年たけてまた越ゆべしと思いきや命なりけり小夜の中山」
この歌は、文治2年(1186年)に西行法師が東大寺再建の勧進のために奥州藤原氏のもとへ赴く途中で、かつて小夜の中山を通ったことに思いを馳せ、詠んだものです。
20

久延寺

久延寺
小夜の中山峠の中腹に位置する古刹です。
山内一豊が関ヶ原合戦のきっかけとなる会津上杉征伐の軍を大坂より進めてきた家康をもてなした茶亭の跡や、その礼に家康が植えたとされる五葉松が残っています。
また、夜泣き石伝説ゆかりのお寺としても有名です。
久延寺

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