モデルコース

掛川宿

モデルコース概要

掛川宿は、天保14年(1843年)の記録によると、本陣2軒、旅籠屋30軒等、960軒の家があり、3443人が住んでいました。宿の東寄りの天然寺と西端の円満寺は朝鮮通信使が来聘した折には宿所として使用されました。
1691年に東海道を旅したケンペルの「江戸参府旅行日記」(平凡社「東洋文庫」)には、「この町の両側(東西)には郭外の町があり、門と番所があります。北側には城があり、櫓のない簡単な石垣で囲まれ、中には高くそびえた白壁の天守閣があり、大きな城に美しさを添えていた」と記され、1776年のツュンベリーの「江戸参府随行記」(平凡社「東洋文庫」)には「防備された大きな町、掛川」と表現されています。

ルートポイント紹介

西番所跡

掛川宿内の治安維持のため、街道の東西に番所が設けられていました。かつて旅人が宿内に入るには、ここで検問を受けなくてはなりませんでした。
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蕗の門(円満寺)

蕗の門
蕗の門は、かつて掛川城内にあり、城外・侍町より、本丸・二の丸・三の丸の要所を結んでいました。
廃城後の明治5年(1872年)、円満寺が買い受けて現在地に移築されました。
市の文化財に指定されています。
市指定文化財 建造物
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問屋場跡

問屋場では、人馬の継立や御用旅宿の手配をはじめ、幕府公用の書状や品物を次の宿場に届ける飛脚業務を行っていました。
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本陣跡

江戸時代に諸大名が江戸と国元を往復した時の旅館にあてた宿駅の宿泊所を本陣といいます。
屋敷規模は総坪457坪余、表間口16間3尺3寸(約31メートル)あったといわれ、いかに広かったかが偲ばれます。
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掛川城天守閣

掛川城天守閣
室町時代中期の文明年間(1469年から1487年)に、駿河の守護大名今川氏が遠江進出を狙い、家臣の朝比奈氏に命じて築城させたと伝えられています。
明治維新とともに廃城となりましたが、平成6年(1994年)に「東海の名城」と呼ばれた美しさそのままに、日本初の「本格木造天守閣」として復元されました。
掛川城
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掛川城御殿

掛川城御殿
城主の公邸、藩の役所、公式式典の場などとして使用されていました。
現存する御殿は、江戸時代後期に再建された建物で、全国で数カ所にしか残っていない大変貴重なものとして、国の重要文化財に指定されています。
掛川城御殿
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竹の丸

竹の丸
竹の丸は、天守閣や本丸など城の中心部に通じる道筋にあたり、防衛上重要な場所であったことから、家老など重臣の屋敷地に割り当てられていました。
竹の丸
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大日本報徳社

大日本報徳社
二宮尊徳の唱えた報徳思想の普及をめざし、困窮にあえぐ農民の救済をめざした報徳運動が全国に広まりました。明治初期、報徳運動の中心機関として大日本報徳社がこの地に設立されました。
国の重要文化財に指定されています。
大日本報徳社
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大手門

大手門
大手門は天守閣に続いて平成7年に復元されたものです。掛川城の表玄関にふさわしい桜門造りの本格的な櫓門は、木造日本瓦葺き入母屋づくり。白壁で板ひさしが配され、棟上にはシャチ瓦が飾られた勇壮な構えです。実際は現在地より50メートルほど南にありました。
大手門・大手門番所
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ゲイスベルト・ヘンミィの墓(天然寺)

ゲイスベルト・ヘンミィの墓
江戸時代の長崎(出島)のオランダ商館長であったゲイスベルト・ヘンミィは将軍徳川家斉に謁見後、長崎へ帰る途中に掛川宿で客死し、天然寺に葬られました。
墓石は当時のオランダ人墓の意匠を現在に伝えるものとして、市の文化財に指定されています。
市指定文化財 建造物
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高札場跡

高札場とは、幕府や領主が決めた法度や掟書などを高札と呼ばれる木の札に記して、掲示しておく場所のことです。多くの人の目につくように、村の中心や主要な街道が交錯する交差点といった人通りの多い場所に設置されていました。
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東番所跡

掛川宿内の治安維持のため、街道の東西に番所が設けられていました。かつて旅人が宿内に入るには、ここで検問を受けなくてはなりませんでした。

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