総合トップ観光・文化・スポーツ学びと文化郷土の偉人八木美穂(やぎよしほ) その3

八木美穂(やぎよしほ) その3

2011年11月28日更新

美穂の高い学識

あるとき、美穂は近隣の人々と紀州(和歌山県)を旅行し、旅先の茶屋で書を求められふすまに書きました。帰り道に「今日の書をこの国で何人わかるだろうか」と語ったそうです。後に、美穂の評判を耳にした紀州の殿様が高給で雇おうとしましたが、すでに横須賀藩に仕えていたため断ったと言われています。

海原の沖つ白波より来(く)とも磯の松が枝色(えいろ)も褪(あ)せめや

浜松市立賀茂真淵記念館蔵に保管されている磯の松
『磯の松』(浜松市立賀茂真淵記念館蔵)

弘化3年(1846)沖之須沖への黒船の出現など、外国船の出現が増えその対応に揺れる横須賀藩に対し、上の一首で始まる『磯の松』を著し、復古精神を説き、団結して国のために尽くすべきと説きました。

横須賀藩校教授長となる

横須賀藩藩校「修道(しゅうどう)館」は文化8年(1811年)、美穂12歳のときに設立され、藩士や医者の子弟に学問を教えました。
美穂は弘化2年(1845年)、46歳のとき藩主西尾忠受(たださか)の歌道の師となり学問を教えます。それに伴い修道館の教授となり、武士の身分をもらいます。同時に浜野村庄屋役となり、めでたいことが続いたため八木家では村人を招き2日間祝宴を行いました。
修道館は横須賀城東側坂下の谷にあり、美穂はそこの教授ですので迎えのかごが浜野の家に来るのですが、裏口から抜け出し、砂浜を歩いて出勤したことがよくあったそうです。
嘉永3年(1850年)、美穂51歳のとき、藩校教授長となり、城下の枕町(横須賀小の近く)に家をもらい、「中林館(ちゅうりんかん)」と名付けました。
このころ、藩主から地方史編さんを命じられ、作成されたのが『郷里雑記(ごうりざっき)』です。
それまでの遠江の郷土史としては、杉浦国頭(くにあきら)の『曳馬拾遺(ひくましゅうい)』、内山真龍(またつ)の『遠江国風土記伝(とおとうみのくにふどきでん)』、掛川藩による『掛川誌稿』があり、『郷里雑記』はそれらと並ぶ貴重な資料です。横須賀藩内の風俗、習慣、産物、動植物などが詳しく記されています。
晩年の美穂には脇腹が痛む持病があり、これがもとで安政元年(1854年)の秋、55歳で亡くなり、浜野の三邑院(さんゆういん)に葬られました。
教え子は多く、岩滑の中島嵩石(すうせき)は、その弟子の鈴木春芳(はるよし)とともに、地域の教育に貢献しています。遠州に報徳を広めた岡田良一郎も、幼いころ美穂に学んだと言われます。また、明治維新の遠州報国隊へも多くの門弟が参加するなど、各方面で活躍しました。
美穂は、生涯を浜野村で暮らし、有名になることはありませんでしたが、地方の子弟教育に大きな役割を果たしました。その学識も高く評価され、当時著書が出版されていれば、有名になったであろうと言われます。
美穂をはじめ、偉大な先人の功績は現在へと受け継がれています。これらを未来へと伝えていくことが私たちの役目です。

横須賀藩校「修道館」のあったところの地図
横須賀藩校「修道館」の
あったところ

江戸期の『掛川誌稿』と並び、 郷土資料として貴重な『郷里雑記』
江戸期の『掛川誌稿』と並び、
郷土資料として貴重な『郷里雑記』

浜野の三邑院にある墓
浜野の三邑院にある墓

 

編集 大東図書館

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