総合トップ観光・文化・スポーツ学びと文化郷土の偉人名倉五郎助(なぐらごろすけ) その1

名倉五郎助(なぐらごろすけ) その1

2011年11月24日更新

300余年の間、100ヘクタールの耕地を潤した、十内圦(じゅうないいり)(地下水路)作りに貢献

300年前の西大渕

春の大祭で、多くの人たちを集める三熊野神社門前の通りを横切って、南へ、海の方向へとつながるこの道は、かなり古くからあったもので「お宮小路(みやこうじ)」と言い伝えられています。
この一帯(番町地内)は、かつて武家屋敷のあった所で、細い路地に閑静な趣が残っています。駿遠鉄道(軽便)軌道跡を横切り進むと大きな松が見えてきます。この辺りが三熊野神社宮本の地、西大渕地区です。
西大渕地内には、西大谷の山を源とし、南北に流れる西大谷川があります。この地域には300年ほど前、川を中にして、大きく村東と本村(ほんむら)に分かれた西大渕村があり、村東は比較的水利に恵まれ、隣村の沖之須とともに良田(りょうでん)に恵まれていました。
ところが、西側(本村)は、広い面積の土地はありましたが、米づくりには適さない土地でした。
西大谷川は、典型的な天井川であり、常には、ほとんど水は流れていませんが、一旦、豪雨に見舞われると、流域に大きな災害を発生させていました。
名倉五郎助は、本村の庄屋の家に生まれ、幼いころから、水に悩む西側の田畑を見て育ちました。

400年以上の樹齢といわれる「大松」の写真

400年以上の樹齢といわれる「大松」
秋葉常夜燈、地蔵堂があり「内記様」として五郎助、十内が祀(まつ)られている。

300年にわたり水田に恵みを与えた地下水路「十内圦(じゅうないいり)」

地下水路十内圦の説明。東側(坊主渕川上流)・村東から西側(下流)・本村まで約70メートル、深さ約80センチメートル。 西大谷川堤防約6メートル、西大谷川堤防の間の約10メートルの西大谷川河床を通っている。
十内圦説明画像

地下水路の建設に取り組んだ五郎助

正保2年(1645年、三代将軍徳川家光治世のころ)、西大渕村から、南西位置にある今沢新田にかけての田畑は、水の便が悪く、村人は水を引くことに苦労し、時に水争いもありました。村の西を流れる弁財天川(べざいてんがわ)は、海面とほぼ同じ水位で、東側の西大谷川は常には一滴の水もなく、どちらの川も潅漑(かんがい)に役立たない状態でした。100ヘクタールもある広い耕地も作物がよく育たず、特に日照り続きの年などには、せっかく育てた稲が枯れてしまって、村人の暮らしが不安におびやかされることがしばしばありました。五郎助は、常に田畑を見て回り、村人のこうした苦しい生活を救うため、何かよい方法はないかと考え続けていました。
ある日、何げなく西大谷川の堤防に立って、東側に広がる青田を見わたしていたとき、眼下を東の方から流れてくる坊主渕(ぼうずぶち)川(大夫渕(たゆうぶち)川ともいう)に、ふと目がとまり、「そうだ、この川の水を田畑へ引き入れることができたら」と考えつきました。そして、その日から五郎助と西大谷川との河川改良の闘いが始まりました。

地下水路十内圦(じゅうないいり)の写真
厚さ13センチ、巾25センチの石材で
作られた川底の下の地下水路「十内圦」

内圦の構造の説明画像。横幅74センチメートル、栗石を敷き詰めた上に丸太を置き、縦80センチメートル、横幅13センチメートルの石材で囲われている水路。
十内圦の構造

 

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