奉行柳原十内(やなぎはらじゅうない)との出会い
正保2年(1645)、城主の国替えがあり、横須賀藩は第12代藩主本多利長を迎えました。
本多利長は、前の城主に比べると、城下町の産業全般を盛んにすることに対してかなり理解があり、熱心に取り組もうとしていました。
五郎助は、これをチャンスととらえ、再び用水工事を願い出ました。今までの研究の成果による前よりも詳しい設計書を添えて差し出し、「五郎助の生命(いのち)にかけても完成させる」と、きっぱり言って城を後にしました。
利長の城主期間は38年におよび、当時、著者不明の「百姓伝記」(農業用図書)は、利長によって横須賀藩へ持ち込まれたのではないかという話もあります。
この段階に至り、五郎助と土木奉行柳原十内との出会いがありました。利長は、十内に対し「用水工事設計書」を基にした計画を調べさせたうえ、これを許可し、工事監督を命じました。(柳原十内は、「内記様」といわれ、今でも西大渕の人たちに崇拝されています)
五郎助は、天にも上る思いで、いよいよ用水工事にとりかかりました。
五郎助のいきとどいた計画と、石よりも固い決意が理解され、村人たちはすすんで工事に参加しました。
農地に水が必要な時、坊主渕川の水をせき止め、足踏み水車により水位を上げ、地下水路を通じて西側の今沢新田などに流しました。
常に水のない西大谷川の高い堤防を切り割ることから、
工事は始められました。(写真は十内橋の北側から撮影しています)
東側取水口
大雨による災難
工事は、西大谷川の高い堤防を切り割ることから始められ、石材(伊豆石)は、伊豆東海岸などから横須賀港に陸揚げされ、順調に進んだといわれています。
ところが、秋も半ばになって思わぬ災難が起こりました。二、三日降り続いた雨が、ついに大雨となり、西大谷川の鉄砲水が、堤防を切り開いた工事現場をおそいました。堤防はたちまち土砂がおし出され、田畑一面泥海となったのです。その年、一粒の米もとれない程の大被害を受けました。
これは、五郎助の計画や工事の手ぬかりがまねいた災害ではなく、全くの天災でありました。しかし、村人の明日の暮らしなどを思うと、五郎助は悲しみに声も出ませんでした。五郎助は、自責の念に堪えられなくなり、ついに工事小屋で自刃して、村人と城主にわびました。
(大雨による災難以下の文章は、「郷土の発展につくした人々(上巻)」より転記)
文責 鈴木誠作(掛川市西大渕)