武田勝頼に高天神城を奪われ、遠江での影響力を低下させていた家康だったが、翌年の長篠の戦いにおいて信長との連合軍で武田軍に大勝すると、これを機に家康は攻勢に転じ、武田方に奪われていた北遠の城を次々と取り返していった。
そしていよいよ家康は高天神城奪還のための行動を開始する。当初は馬伏塚城(現在の静岡県袋井市)を本陣としていたが、1578年には大須賀康高(おおすかやすたか・後の初代横須賀城主)に命じ、高天神城から西にわずか10キロメートル足らずに横須賀城を築城し、ここに本陣を移す。また、1580年までには小笠山砦など高天神城の周囲に6つの砦を築いて完全に包囲し、高天神城への補給路を断つ兵糧攻めの態勢を固める。
家康による高天神城包囲の図
1580年、家康は高天神城奪還のため、高天神城の周囲に6つの砦を築き、高天神城への補給路を断つ兵糧攻めの態勢を固めた。
巴凧
横須賀の三つ巴と、徳川の軍扇が武田の菱を挟む
図柄になっている300年以上の伝統を持つ凧
孤立無援に陥った高天神城の城代岡部長教(おかべながのり)らはこの間勝頼に幾度となく援軍を求めたが、武田軍には背後を脅かす北条氏の動向もあり、援軍を送る余裕がなかった。
1581年、いよいよ兵糧が尽き餓死者が出るに至ると、城代岡部らは玉砕覚悟で戦に挑む決意を固める。このとき徳川方に幸若舞(こうわかまい)の名手・与三太夫がいることを知った城兵は、今生の名残にと幸若舞を願い出る。城兵の覚悟を悟った家康はこれを聞き入れ、戦の前夜、高天神城の堀外にて舞を披露させた。その舞は敵味方一緒に鑑賞したとの言い伝えが残っている。
犬戻り猿戻り
家康による高天神城落城の際、武田方の軍艦・
横田甚五郎尹松が勝頼に報告するため、辛くも
脱出した険路。犬も猿も戻ってくるような道で
あることから名付けられた
翌朝、城代岡部以下900余名は高天神城の門を一斉に開け放ち、血路を開くべく戦に討って出るが、壮絶な死闘の末玉砕した。実に730余名が堀に埋まったという。
戦いの後、家康は城内を検視し、城郭を焼き払って浜松城へ帰った。
その翌年、勝頼は自害、武田家は滅亡する。