総合トップ観光・文化・スポーツ学びと文化歴史岩倉城落城、一豊一家は流浪の旅へ(1559)

岩倉城落城、一豊一家は流浪の旅へ(1559)

2017年10月6日更新

黒田小学校の校庭の片隅に立つ黒田城址の碑
黒田城跡(愛知県一宮市)
黒田城は一豊の父・盛豊が城主であった。
一豊の出生地の候補の1つ。
現在は黒田小学校の一角に石碑が立つ。

山内一豊は1545年、尾張国(現在の愛知県西部)の城主、山内但馬守盛豊(やまうちたじまのかみもりとよ)の次男として誕生した(異説あり)。幼年の頃の一豊は恵まれた環境のもと、伸びやかに育ったようである。
当時、山内家は織田信安率いる岩倉織田家に属していた。信安は尾張の北四郡を支配し、尾張統一を目論む南の織田信長と対立していた。1556年、信長が弟信勝を撃破すると、信長を倒さんとする信勝は信安と手を組む。このことが、その後の山内家、一豊の運命を暗転させることになる。
1557年夏、父盛豊の黒田城に信長の意を受けた刺客十数名が夜襲をかけた。この夜襲により兄十郎が討死し、一豊らは辛くも難を逃れ岩倉城に落ち延びる。しかし1559年、尾張統一を目前にした信長は岩倉城攻撃を開始、城下に火を放ち、鉄砲攻めにして岩倉城を落城させた。この攻撃により父盛豊は討死、城を失った一豊は母や弟妹と共に路頭に迷うことを余儀なくされた。ときに一豊15歳の冬の出来事であった。

 

岩倉城跡と刻まれた石碑と案内板が設置されている。
岩倉城跡(愛知県岩倉市)
黒田城での夜襲から一豊が逃げ延びた城。信長により落城し、一豊は流浪の身となった。

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