総合トップ観光・文化・スポーツ学びと文化郷土の偉人吉岡彌生(よしおかやよい) その2

吉岡彌生(よしおかやよい) その2

2011年11月25日更新

医術開業前期試験に合格したころの彌生(右)と同志の女子学生たち
医術開業前期試験に
合格したころの彌生(右)
明治23年

彌生は18歳で、私立の医学校「済生学舎」(東京都湯島)に入学します。この学校は、当時女子の入学を認めていた数少ない医学校で、学歴にかかわらず入学できました。ちなみに、彌生の少し後には野口英世も在籍していました。
授業内容が大変なのはさることながら、それ以上に彌生を悩ませたのは男子学生の存在でした。明治のころは「医師といえば男性」、これが常識でした。彌生を含め数少ない女子学生は、ひやかされたり嫌がらせを受けたりして、とても落ち着いて学ぶ環境ではありませんでした。また実技の授業では、包帯の巻き方一つ学ぶにも、男子であればその場で服を脱いで学生同士が互いに包帯を巻き合いますが、女子ともなるとそうはいかず、帰宅して下宿先の人を相手に練習するしかありませんでした。このような苦労を経験したからこそ、女子が安心して勉強に専念できる学校の必要性を誰よりも強く感じ、それがのちの女医学校設立へとつながります。

 

彌生が使用していた、3つ並んだトラウベの画像
彌生が使用していたトラウベ(胎児の心音を聴く医療器具)

医師となって帰郷

入学してから3年後、苦労の末に医術開業試験に合格し、明治25年(1892年)、日本で27番目の女性医師となります。彌生は21歳になっていました。
帰りを待ちわびる両親の再三にわたる説得で、翌年土方に帰ってきます。村では、鷲山のお嬢さんが立派な医者になって帰ってきたと大変な騒ぎでした。帰郷後、彌生は大坂村と大須賀村(横須賀)にある父の病院の分院を手伝うことになります。このあたりは、まだ昔からの漢方医が主流で、彌生のように正式の免状を持った医者は珍しい存在でした。別の病院で、チフスと誤診された患者が肺炎であることをつきとめるなど、東京で最新の医学を学んできた彌生の分院は大繁盛でした。ここで、内科から外科はもちろん、ときには歯の治療までさまざまな患者を診たことが、その後の彌生にとって貴重な経験となりました。

2度目の上京そして結婚

明治28年(1895年)、彌生は医師としての腕をさらに磨くため、ドイツ留学を目指し再び上京します。東京では、本郷区東片町(現在の文京区)で開業のかたわら、留学のために私塾「東京至誠(しせい)学院」でドイツ語を習います。これが縁となり、学院を経営していた吉岡荒太と結婚します。

明治25年(1892年)

医術開業試験に合格。日本で27番目の女性医師となる。

明治26年(1893年)

帰郷。鷲山医院の大坂村分院、大須賀村分院で開業。

明治28年(1895年)

上京。東京至誠学院入学。吉岡荒太と結婚。

編集 吉岡彌生記念館、写真 東京女子医科大学所蔵

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