掛川宿へ南北の物産集散を
山崎千三郎は、掛川地域の発展のためには、掛川宿を縦断する信州街道(塩の道)を利用することにより、南北の物産を掛川宿へ集散させることが重要だと考えていました。
掛川と森町間の街道を自費で買収
掛川宿を通る南北道路の信州街道は、二俣・森町方面から掛川宿を通り、相良港の海路につながり、この地域の経済発展に関わる遠距離輸送の要路でした。
明治10年(1887)、まず北部方面に目を向け、森町、二俣町周辺の豊かな森林資源や産物を掛川宿に集めるために、掛川(大池)と森町間の街道を自費で買収し、荷車で容易に産物が集散できるよう道路の改修工事を行いました。
一方、南部地域には、広大な穀倉(こくそう)地帯がありましたが、米穀その他の豊かな産物の輸送は、上張村と城東郡板沢村の間に青田峠という山道があり、輸送が困難でした。そのため、この悪路を荷車や人力車で容易に通行できるように、千三郎は上張村の有力者河井重蔵をはじめ、板沢村の角皆七郎平などに働きかけ改修工事を行いました。
大量輸送に馬車鉄道を計画
明治22年(1889)に東海道鉄道が開通し、掛川駅が開業すると、これに対応する物資産物の大量輸送の必要性が生まれてきました。
明治26年(1893)、千三郎は掛川と森間に「掛川馬車鉄道」施設願いを内務大臣、井上馨に提出し、資本金5万円(今の物価で約1.6億円)は千三郎が自己出資しました。明治28年(1895)には計画を見直し、近代化した蒸気機関による「掛川鉄道株式会社創立願」を松原県知事に提出しました。資本金は30万円(注 今の物価で約10億円)で、千三郎は筆頭株主となり、出資者の中には政財界の重鎮(じゅうちん)、渋沢栄一など77人が加わっていました。
青田坂のトンネル工事
南部は、特に青田峠の難関を打破する必要がありました。
明治25年(1892)、南部の交通障害を打開するために、千三郎は掛川町、南郷村、上内田村に働きかけ「青田坂隧(ずい)道工事組合」を作り、トンネルの掘削工事に取りかかります。工事費6,071円(今の物価で約2,000万円)余りという巨額工事でした。トンネルの長さは64間(115メートル)で、近代工法により、レンガ199,434枚、セメント194樽(たる)が使用されました。江戸時代より永年に渡り、青田峠の山越えは一度通って三嘆する(一度通ると、いくたびも嘆く)という難関で、南北を分断する難所でした。明治28年(1895)、青田坂トンネルが開通し、永年の山道の悩みが解消した地域住民の喜びはひとしおでした。
東海道鉄道駅の開設と青田トンネルの開通は、小笠郡と城東郡の人達の交流を一層深め、産業や交通の発展に大きく寄与する事業でした。
注 お米60キログラム(一俵)の価格を、明治26年3円66銭、平成21年12,000円として試算
青田峠の山道(塩の道)
明治28年に開通した青田トンネル
(今でも通行できます)
現在の青田トンネル
文責 岡本春一