総合トップ観光・文化・スポーツ学びと文化郷土の偉人山崎千三郎(やまざきせんざぶろう) その4

山崎千三郎(やまざきせんざぶろう) その4

2011年11月25日更新

掛川区域の財政力・殖産力育成に尽力

掛川城主として120年続いた太田氏が、千葉県芝山に転出した後の掛川は、明治維新という時代の変革と指導者の喪失で混乱の時を過ごしていました。
そんな折、明治22年(1889)、国の町村制発足に伴い、山崎千三郎は掛川町最初の町長として町行政に力を入れ、掛川区域の将来の展望に立って自らの財力を惜しみなく活用し、殖産育成に力を注ぎました。
事業の育成には、多額の資金が必要なことから、地方銀行の草分けとも言える貯蓄結社「厚生社」を作ります。これを手始めに、明治12年(1879)、県が布達した「資産貸付所」掛川分所を岡田良一郎と力を合わせ創立し、地方産業発展の財務的基礎を作ります。
明治13年(1880)、江戸時代末期より盛んになった掛川区域の茶産業の資金需要に応えるために、掛川周辺の豪農に呼びかけて、県下有数の規模を持つ「掛川銀行(静岡銀行の前身)」を創設して、自ら大口の出資者となると共に、初代頭取として活躍しました。

大きな屋根の掛川銀行外観イラスト
製茶業資金調達を目的に作られた掛川銀行

緑茶を輸出製品として海外貿易を

この地方の産業発展は、茶業の振興にあると確信した千三郎は、特に茶園の開発に力を入れ、明治14年(1881)、遠州一円の製茶業者に呼びかけ茶再生工場を横浜に作り、掛川茶を外国に直接輸出する貿易の発展策を図ります。その後再生工場を静岡に移し、清水港を貿易港として製茶輸出の基礎を作りました。こうした努力は、現在の掛川区域を中心とした地場産業発展の基礎を築いた先駆者の功績として貴重なものがあります。

赤いチョウチョが中央にデザインされ、ジャパンティーと英字を使ったラベル
当時の茶ラベル。明治43年には、清水港からの茶輸出量は全国一に。
(島田市お茶の郷博物館所蔵)

自宅が明治天皇行在所の栄誉に

明治11年(1878)11月、明治天皇が北陸・東海地方を御巡幸されたとき、千三郎は東海道より通じる表道路を拡幅し、自宅を大改造して10日間開放し、御宿泊を賜りました。この建物は昭和8年(1933)、文部大臣より史跡に指定され、建物前にはその標識が建てられています。
これまで4回にわたり掲載した山崎千三郎の企画力、実行力に伴った遠大な計画は着々と実行に移され、東京の渋沢栄一まで巻き込んだ大事業がこれからという明治29年(1896)7月4日、千三郎は42歳という若さで逝去します。この喪失は大きく、その後の掛川町政は混乱を重ね、経済は衰退しましたが、大正12年(1923)、ようやく立て直すことになります。

明治天皇御宿泊記念の碑
明治天皇御宿泊の記念碑

立派な門構えの山崎家
明治天皇が10日間御宿泊された山崎家(十王)

 

文責 岡本春一

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