松本亀次郎 その1

2011年11月22日更新

日本と中国の友好につくし、日本での勉強を志していた魯迅(ろじん)、郭沫若(かくまつじゃく)、周恩来(しゅうおんらい)など中国のリーダーに日本語を教え中国人留学生教育に生涯を捧げた人

松本亀次郎先生は上土方の生まれ

松本亀次郎氏の肖像
東亜高等予備学校校長時代の松本亀次郎

徳川氏と武田氏が激戦を繰り広げた戦国時代の山城(やまじろ)、国指定史跡高天神城跡(たかてんじんじょうせき)のすぐ北に位置する上土方嶺向(かみひじかたみねむかい)の集落に、松本亀次郎公園がひっそりとたたずんでいます。松本亀次郎は、慶応2年(1866年)ここで産声(うぶごえ)を上げました。今から142年前のことです。この公園には、亀次郎をたたえる石碑があり、彼の肖像レリーフとともに文豪井上靖(いのうえやすし)の揮毫(きごう)による文字が刻まれています。

 

中国人留学生教育に生涯を捧げた人

日本には、明治時代の中ごろから、日本を通じて西洋の近代文化を学ぼうとする、中国の留学生が大勢やってきており、また彼らを受け入れる学校もありました。その中に松本亀次郎は不惑(ふわく)も近い37歳にして飛び込んだのです。亀次郎の教育を受けた中国人留学生には、文豪の魯迅や中国の首相をつとめた周恩来をはじめ、これまでの中国の発展を支えた多くの人がいます。

「私にとって、中国人留学生の教育は、無上の至楽であり、終身の天職であった。功名や富貴は眼中になかった。貧乏ではあったが地道に仕事をして、今日に至るまで、体の老いにも気付かないくらいであった」

これは亀次郎がその半生を振り返り語った言葉です。そのような亀次郎に、中国の人々は今でも大きな敬意を寄せています。それは大東町のころから続く日中友好使節団訪中の歓迎ぶりにも表れています。亀次郎は、長年にわたり培われてきた日中友好の架け橋といえる存在なのです。

それでは、松本亀次郎がどのような人生を送り、私たちに何を残したのか見ていくことにしましょう。
松本亀次郎は7歳で寺子屋に通い、学制改革により嶺(みね)小学校に入ります。亀次郎の父親は木挽(こび)き職人で、少しの田畑を持っていましたが、決して裕福ではありませんでした。亀次郎は家業を手伝いながら熱心に勉強しました。そして、11歳のとき、教師の手伝いをする授業生になり、自分も勉強を続けながら生徒に教える立場となります。生徒の中には、日本で27番目の女性医師となり、東京女子医科大学の創設者である5歳年下の鷲山彌生(やよい)(後の吉岡彌生)の姿もありました。その後、授業生をつとめるうち、教師を一生の仕事にしようと心に決めた亀次郎は、さらに勉強に打ち込みました。そして、教育に力を入れていた村の人々の援助もあり、念願かなって、この地方の最高学府である静岡師範学校(現在の静岡大学教育学部)に挑戦します。教師になる夢を抱き、そして郷土の未来の期待を背負う秀才の一人として。

図書館にある松本亀次郎の本

  • 「日中教育のかけ橋 松本亀次郎伝」平野日出男1982 静岡教育出版社
  • 「松本亀次郎の生涯」武田勝彦1995 大東町教育委員会
  • 「松本亀次郎顕彰事業のしおり」1995 大東町教育委員会 など

松本亀次郎の生涯の書籍と大東図書館の写真
松本亀次郎の資料は大東図書館に収蔵、展示しています

周恩来氏の肖像
周恩来(しゅうおんらい)
大正6年ごろ松本亀次郎から日本語を学んだ。(当時19歳)

魯迅の肖像
魯迅(ろじん)
中国の小説家、思想家。
明治36年ごろ松本亀次郎から日本語を学ぶ

 

松本亀次郎誕生の時代

松本亀次郎誕生の時代
1853年(嘉永6年)ペリー浦賀に来航
1866年(慶応2年)松本亀次郎誕生
1868年(明治元年)掛川藩主太田資美が領地を新政府に返還
1871年(明治4年)廃藩置県

編集/大東図書館

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