日中友好の架け橋 日中親善は留学生教育の副産物
その半生を本にまとめる
昭和5年(1930年)、64歳の時、亀次郎は中国教育事情の視察に派遣されました。この旅行の記録と感想を「中華五十日游記(ちゅうかごじゅうにちゆうき)」「中華教育視察紀要(ちゅうかきょういくしさつきよう)」という二つの文章にし、中国人留学生教育史をまとめた「中華留学生教育小史」を加え、一冊の本として翌年に出版しています。
亀次郎には、特別な思想も政治的な意図も全くありません。しかし、一人の教育者として留学生に接してきた経験から思うことはあり、「中華留学生教育小史」では、両国の親善を図るための条件を5つ挙げています。
- 日本の政治家の中国に対する方針、政策は一定しなくてはならない。親日、排日の感情は政策、政治家の発言によるところが大きく、日本国民全てに対してではない。
- 中国の指導者や父兄は留学生に対し指導、注意をして欲しい。普段から修学上に注意を与えられ、軽挙を戒められている人は、騒動などに簡単には身を投じない。
- 留学生は専門学科の勉強はもちろん、日本研究もして欲しい。日本文化、国民性を知ることが両国民交流の基礎となる。真に理解ある親善は純粋な学生からであるべき。
- 日本の一般家庭は、家庭を開放し留学生と歓談する機会を作って欲しい。留学生は慣れない外国で苦労している。帰国すれば有力者になりうる優秀な人たちなので、敬意をもって接し、子どもには外国人に対する悪口を戒めて欲しい。
- 両国の一般国民は互いに広い心を持ち、一時的な政治・経済の紛争に惑わされることなく、国民同士は親しみを持ち続けて欲しい。互いにこのような理解があれば、留学生も簡単には動揺しない。
この本は日中関係が大変微妙な時期に出版され、国内の著名人に贈られました。少なからぬ反響があったようで、それぞれの立場からの返事が残されています。
詩作と揮毫(きごう)に暮らす晩年
60年ぶりに戻ってきた土方村では、ゆったりとした時間の流れの中で友人と過ごしたり、かねてからの趣味である和歌や漢詩をつくったりと、静かな生活を送りました。そして終戦から1か月ほどたった昭和20年(1945年)9月12日、79歳で亀次郎はその生涯を閉じました。
留学生教育の副産物
亀次郎の生家跡に建てられた記念碑。
中国小説を多く書いた井上靖の書が刻まれている。
両国の親善を説く亀次郎に対し、現状の困難さを伝える、
当時の関東軍司令官本庄繁の手紙。 この年、満州事変が起こる。
亀次郎の見識、歌を褒めている
与謝野晶子の手紙封筒
昭和6年9月、 中国政策に憂慮する亀次郎の考えに同感する旨の内容を送った、
終戦時の総理大臣、鈴木貫太郎の手紙
松本亀次郎 活動の時代
1931年(昭和6年) | 中華五十日遊記出版 満州事変おこる |
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1935年(昭和10年) | 二俣線、掛川から森間開通 |
1937年(昭和12年) | 日華事変勃発 |
1938年(昭和13年) | 掛川中学全国野球大会初出場 |
1941年(昭和16年) | 太平洋戦争勃発 |
1945年(昭和20年) | 終戦 亀次郎没(79歳) |
編集/大東図書館