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第366回 掛川に根づいた「報徳の教え」

2012年5月4日更新

掛川市IT政策課長 綱取 清貴

大日本報徳社を訪れると最初に出迎えるのは、明治42年に建てられた「道徳門・経済門」と刻まれている大きな正門です。「道徳」と「経済」の調和した社会をめざす報徳の教えを象徴しているもので、企業経営におけるキーワードとして国内は勿論のこと、外国からも注目されています。

次に、正門をくぐると正面に日本瓦の大屋根「大講堂」が建っています。明治36年に建てられた大日本報徳社の中心的かつ象徴的な建造物として、明治から様々な報徳教化活動が行われてきたところで、現存する公会堂としては最古の建築物として、国の重要文化財に指定されています。

「道徳門」(右)と「経済門」のようす
大日本報徳社本社正門 「道徳門」と「経済門」

大講堂の大広間に飾られた二宮尊徳像の画像
大講堂大広間の二宮尊徳像

大講堂の大広間に飾られた二宮金次郎像の画像
大講堂大広間にある二宮金次郎像

 

報徳の精神を説いた報徳訓の画像
大講堂大広間の報徳訓

大講堂大広間の内部は、1階は和風、2階は洋風の外観で、わが国屈指の大規模近代化和風建築として知られています。大広間の正面には「報徳訓」の掛け軸がかかっており、報徳関係の会合で必ず唱和するものです。私が住んでいる入山瀬区5組では、今日でも毎月1回当番のお宅に集まり「お庚申様(こうしんさま)」と称し唱和しています。報徳訓の全文は、1句9字ずつ12句、合計108文字の繰り返し文ですが、報徳精神を説いた名文で、父母、子孫、吾身等のすべて「○○に在(あ)り。」で表現を統一し、最後に「年年歳歳報徳を忘れべからず」と結んでいます。これまで毎月1回提唱していることから、掛け軸の報徳訓はすらすら読めるほどになりました。

さて、幕末から明治に至る日本の近代化が始まろうとする時期、二宮尊徳の唱えた報徳思想の普及をめざし、道徳と経済の調和・実践を説き、困窮にあえぐ農民の救済をめざした報徳運動が全国に広まりました。尊徳高弟の岡田良一郎の力強い指導による活動が盛んであった掛川は、やがて全国の報徳運動の中核地となり「大日本報徳社」が開設されました。

報徳運動の創始である二宮尊徳(にもみやそんとく)は幼名を金治郎(きんじろう)といい、少年時に両親と死別し、貧しい暮らしの中で勤労に励み、倹約を重ね、独学で豊かな幅広い見識を育みました。やがては、全国各地の困窮した農民の救済にその手腕を発揮することになり、破綻した農村を救済すべく全精力を傾け、その行動から培った知恵を、二宮尊徳が体系的理想として唱えたものが「報徳の思想」で、「至誠(しせい)」「勤労(きんろう)」「分度(ふんど)」「推譲(すいじょう)」という言葉で表されています。

 

二宮尊徳が体系的理想として唱えた「報徳の思想」

「至誠(しせい)」

すべてのものによい結果を与える理念として「まごころをもって事に当たる」という教え。

「勤労(きんろう)」

「積小為大(せきしょういだい)」という言葉に代表される考え方で、大きな目標に向かって行動を起こすにしても、小さなことから怠らず、つつましく勤めなければならないという教え。

「分度(ぶんど)」

適量・適度のこと。家計でも仕事でも、現状の自分にとってどう生き、どう行うべきかを、知るということが大切だという教え。

「推譲(すいじょう)」

肉身・知己・郷土・国のため、あらゆる方面において、譲る心を持つべきであるという考えで、少しでも他者に譲れば、周囲も自分も豊かになるという教え。

二宮尊徳が体系的理想として唱えた「報徳の思想」の1つ「至誠(しせい)」

二宮尊徳が体系的理想として唱えた「報徳の思想」の1つ「勤労(きんろう)」

 

二宮尊徳が体系的理想として唱えた「報徳の思想」の1つ「分度(ぶんど)」

二宮尊徳が体系的理想として唱えた「報徳の思想」の1つ「推譲(すいじょう)」

 

報徳社本社の中庭に建てられた二宮尊徳の像の画像
報徳社本社中庭の二宮尊徳の像

現在、城東中学校女子卓球部外部指導者(アドバイザー)として、部活動の支援に関わっていますので、スポーツに取り組む精神面として、「報徳の教え」を紹介しています。

「積小為大(せきしょういだい)」:二宮尊徳(金次郎)が残した教えの一つで、コツコツとやり続けることがやがて大きなものとなり、成果を生み、達成感を得ることをいいます。
言い換えれば、夢や目標を叶えるためには、あきらめないで、努力することが大切で、大会でいい結果を出すためには、日々どんな練習でも気を抜かず、真剣に取り組むことが大事。夢をみるだけ、思うだけでなく、小さなことから、自分にできることを始め、継続していくことが大切だと、気づかせてくれる言葉です。