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第476回 狭束郷岩滑村について

2014年4月25日更新

掛川市南部行政事務局長兼大東支所長 安藤 彰

江戸時代末期、旧大東町には二十八ヶ村があったと幕末の浜野出身の国学者「八木美穂」の著書「校正郷里雑記」に記載されております。佐束地区の旧名狭束郷は遠江国城飼郡の郷名で、奈良時代から見える郷名でありますが、由来は未詳となっております。私が推測するに、両方を山に囲まれた佐束川沿いの狭い水田地帯が広がっていたためと思われます。北極の岩井寺山を起点に、高瀬村、小貫村、中方村、岩滑村と続いており、作物は、水田、ゴボウ、山芋、百合根の産地と記載されております。
岩滑村の人家は、東西の山沿いに連なっており、水田が広がっていました。村の産土神は南端に鎮座する宇佐八幡宮ですが、村内各地に佐久知の神、白髭の神、天白の神、八岩の神等が座し、今でも字名が残っております。この岩滑村の由来は、清水ヶ谷とか泉水とかの地名があることから、きれいな水が湧き出て、岩の間を滑るように流れていたところと推察されます。
自治体独立後の岩滑村役場は明治25年4月1日に開設され、当時の人口は690人、121戸(現在697人、219戸)と岩滑村沿革誌に記載されております。当時の岩滑村は非常に貧乏で「泣く子は岩滑へやる」とさえ言われ、灌漑用水がなく大雨が降れば河川は氾濫し水田は泥海と化し、村の財政は極めて貧弱でした。小学校は尋常小学校までで、高等小学校は佐束村に通ったと聞いております。昭和18年4月1日に佐束村(高瀬村、小貫村、中方村)と合併しました。その後、昭和30年1月1日に城東村に、昭和48年4月1日に大東町に、また平成17年4月1日に掛川市と合併し今日に至っております。
当地区の大きな転換点は、昭和42年から始まった県営ほ場整備事業(城東地区A=350ヘクタール )により水田はすべて30アールとなり、灌漑施設が整備され生産性の高い稲作が可能になりました。その中、旧城東村で唯一の岩滑水田協業集団(A=37ヘクタール )が75名の参加農家のもと設立されました。その後、岩滑団地は平成10年に有限会社佐束ファームとなり、現在は3名により効率的な水田経営(41ヘクタール)がされております。
また、同時に昭和48年には地区の南に菊川照明株式会社株式会社(現在の三菱照明株式会社)を誘致し、農村における余剰労働力の就労機会の確保を図ることができ、現在では約500名の雇用の場が確保されております。住宅施策としては、養鶏場跡地約60アールに県の住宅生協による住宅団地(40戸)を誘致しました。
なお、遅れていた茶園の整備につきましては、昭和61年に県営農地開発事業(佐束南地区)に着手し平成11年に完了、51.8ヘクタールの茶園がすべて乗用茶刈機が導入できるほ場となり、これで農地の整備はほぼ終了しました。
このように、岩滑村はかつて小笠郡下で最も貧しい農村でしたが、無数の先達がこの地区を愛し、災害から守り生産性を上げるため一致協力して耕地整理、河川改修、道路改良を行い、巨額の経費を注いで、住み良い地区にしようとした努力により現在の岩滑地区が形成されております。
私たちは昔の村の歴史を知るとともに、その時々の社会・経済情勢を的確に判断し、先を見越して果敢に挑戦していくリーダーの育成が今後の地域づくりには必要なことだと思います。

中方地区と岩滑地区を簡単に書いた地図
中方・岩滑地区

  • 地図が左右に二つ並んでいて、左の地図は中方地区と岩滑地区の略図です。山、川、神社、寺、小学校などの名称が書かれています。右の地図は中方地区と岩滑地区の簡単な図です。中央には南北に流れる川が水色で書かれています。全体的には薄紫色の線で区切られています。

注 平成9年大東町教育委員会発行「大東町の地名」より

岩滑村が昭和48年4月1日に大東町になるまでを図式化したもの

  • 明治22年3月1日(大坂村、三浜村、三俣村、千浜村、佐束村、岩滑村、土方村、中村)
  • 昭和17年6月1日(三浜村と三俣村が合併して睦浜村に)
  • 昭和18年4月1日(佐束村と岩滑村が合併して佐束村に)
  • 昭和30年4月19日(大坂村と睦浜村が合併して大坂村に)
  • 昭和30年1月1日(佐束村と土方村が合併して城東村に)
  • 昭和31年8月1日(大坂村と千浜村が合併して大浜町に)
  • 昭和31年9月30日(城東村と中村が合併)
  • 昭和48年4月1日(大浜町と城東村が合併して大東町に)

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