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第669回 横須賀城下町をブラタモリ的に歩く

2017年6月30日更新

掛川市IT政策課長 戸塚 和美

目次

江戸時代の風情を比較的残しているとされる横須賀城下の町並みですが、だれの目にも明らかな江戸時代然としたものが残されているわけではありません。どことなく感じられる江戸時代から昭和にかけてのレトロな風情とは、幕末以降、緩やかな変遷を経て現在に至ったものですが、一般的には地味でわかりにくいというのが実情なのかもしれません。しかし、普段ほとんど気にも留めない中に地味ながら様々な痕跡が残されており、そこから昔ながらの横須賀城下の風情が「どことなく」今に伝わってくるのだと考えられます。

そこで横須賀城下町の研究や江戸時代の城下町の様子を描いた古絵図や古地図を参考にしながら、「どことなく」感じられる江戸時代の横須賀城下の原風景をブラタモリ的に、いわゆるニッチかつディープに探ってみたいと思います。

横須賀城から見た南方の景色。民家やマンションも見えるが水田が広がっている
横須賀城から南方を望む
眼下に広がる水田は、江戸時代初期の頃までは内海でした。

戦国時代後期、静岡県西部の遠江は、今川氏の旧領を我が物にしようとしていた武田氏と徳川氏による草刈り場と化していました。特に、東遠江は武田、徳川両勢力の境界地域にあたり、高天神城をめぐる攻防が繰り返されていました。当初、徳川方の拠点城郭として長きにわたり武田方の猛攻に耐えていた高天神城でしたが、1574年(天正2年)武田方の猛攻により奪取されてしまいます。徳川家康はこれを奪還するために、兵士と物資の補給のための兵站基地として築いたのが横須賀城です。

1581年(天正9年)徳川方は、圧倒的兵力をもって難攻不落の高天神城を奪還します。ところが、徳川家康は苦労して高天神城を奪還したにもかかわらず、高天神城を廃城にしてしまいました。徳川方が高天神城を手に入れ遠江から武田勢力をほぼ一掃したことにより、高天神城の戦略的価値は一気になくなってしまったのです。その代わりに、地勢的にも経済的にも有利な横須賀城を遠江南東部支配の拠点とし、城郭だけでなく城下町も整備され、近世城下町としての礎が築かれました。

1590年(天正19年)豊臣秀吉による天下統一後、秀吉は遠江の家康を関東に追いやると横須賀城には秀吉配下の渡瀬繁詮が入城させました。繁詮は天守や石垣などの普請をもって織豊城郭として整備、その後の城主も城内、城下ともに拡張が続けられ近世城郭としての体裁を整えていきました。徳川幕府配下においては、松平、本多、西尾氏らの譜代大名の居城となり明治維新まで続くことになりました。

戦国時代から江戸時代にかけての横須賀城の周辺は、現在と全くと言っていい程異なった景観を呈していました。その頃の横須賀城は、小笠山から西南に派生した丘陵と、そこから西に伸びる砂州を利用して築かれ、城の西には「入江池」、南には「内海」と呼ばれる潟湖があり、その潟湖を天然の堀として利用していました。また、「内海」を弁財天川から遠州灘に至る運河として機能させ、河口付近には湊が整備されていました。

2016年の2.5万分の1「袋井」縮小地図、横須賀周辺地形(宝永地震前)
横須賀周辺図

東西南北の陸路の交差地点であったことに加え海運のための湊を有した、まさに陸海の要衝にあった横須賀でしたが、1707年(宝永4年)南海トラフで発生した宝永地震は大規模な地殻変動を引き起こし、潟湖と入江は干上がり、その結果、湊としての機能は大きく衰退してしまったのです。経済活動にも大きな影響を及ぼしたであろうことは言うまでもありません。ちなみに付近の堆積層調査では、宝永地震の際の津波堆積層が発見され「内海」にはアシ・ヨシが繁茂し、シジミが生息する淡水と海水の混じり合った汽水域であったことが判明しています。

横須賀城下は城下町として整備される以前は、三社市場と呼ばれる馬継ぎの宿場が置かれ、東西道と谷筋を北上し東海道に至る街道が交差する物資集散の町場が形成されていました。本格的に城下町の整備が始められたのは、16世紀末の二代城主大須賀忠政の治世とされ、三社市場の町場を中心に城下の町割が行われました。その後、十二代城主本多利長の治世の17世紀後半頃までに完成したと考えられます。城下町としての完成期の様相を示す正保期から天和期にかけての17世紀後半に描かれた「遠州横須賀惣絵図」を参考にしながら、宝永地震前の横須賀城下をみてみましょう。

横須賀城下の構造(正保~天和)。遠州横須賀惣絵図を模式図化したもの
横須賀城下の構造(正保~天和)
「遠州横須賀惣絵図」を模式図化
「遠州横須賀城下町の変遷過程と地域構造」から引用

寺、侍町、町人町

城下町の中でも町人町は城郭から東に向かって細長く伸び、それを囲むように北と南に侍町が配置されています。現在でも絵図と同様に、寺院が北側の谷筋と三番町の南西に集中しており、整然とした寺町が形成されていたとは言えませんが、寺院を同地区にまとめて配置しょうとする計画性が見て取れます。

侍町の配置について、屋敷地の総坪数と建坪の分析した研究によれば、最上級家臣の屋敷を城に隣接する横砂の東や坂下ノ谷の南に配置し、続く上級家臣の屋敷を石津、坂ノ谷、一番町、二番町に配置し、それ以外の家臣屋敷を愛宕下、枕町、三番町に配置し、その外縁部に足軽町を配置していることがわかりました。家臣の屋敷配置については、城近くに身分の高い家臣屋敷を配置し、その外側にいくに従い身分の低い家臣屋敷、さらにそれを取り囲むように最も身分の低い足軽屋敷が配置されていました。このような家臣屋敷地の配置形態は、一般的にも城主の居城を中心とした、身分と格式による同心円的配置分けがされていました。横須賀城下のように地形の制約から東西に長い城下においても、城主の居城を中心とした都市整備がされていたことがわかります。

江戸時代の横須賀城下の町割の中に各屋敷がどのように割り振られていたを示す屋敷割に関する史料はほとんど残されていませんが、幕末頃の絵図をみると短冊状の屋敷地が「口」の字状に廻り、その中央は空間があり牢屋などに利用されていたと考えられます。屋敷割りに関して中央に空間があるものは古い型式とされ、横須賀城下においては幕末まで江戸時代前半以来の古い屋敷地のあり方を残していたと考えられます。

町人町と侍町を区画し往来する街道には、交差する箇所をわざとずらした「食い違い」、直交させない「丁字路」と呼ばれる部分がいくつか存在します。これは町中に敵が進攻した際、敵を攪乱させその進攻を遅らせる効果として設けられました。時代は戦国の世を経た江戸時代、この時期には政情も安定しており、戦国期のような軍事的防御と言うよりも城下町内の掌握と危機管理を高めるたの施策でした。

横須賀城下の交差する箇所をわざとずらした食い違いの街並みの様子1か所目

横須賀城下交差する箇所をわざとずらした食い違いの街並みの様子2か所目
横須賀城下の食い違い

横須賀湊

前述のように、往事の横須賀城下町の特徴を語る上で「内海」を利用した湊の存在は重要で、現地形からは湊の存在を想像することは難しいのですが、絵図と数少ない痕跡から湊町としての様相をうかがい知ることができます。絵図を見ると、町屋の西田町、東田町や侍町の坂下ノ谷などでは大小の流路が内海に向かって東西に走っていることがわかります。その流路の一つ沢上町の北谷筋から流れる下紙川は、城主本多利長により17世紀後半頃、東田町付近で流れを変え町中を横貫する流路として整備されました。残念ながら現在では暗渠となっており湊に通じていた流路としての面影はうかがえませんが、かつてこの流路は「内海」を経て横須賀湊へと通じ多くの小舟が往来する運河として機能していたのです。

東田町周辺では、運河を利用し年貢米や特産物の海上輸送を取り仕切っていた清水家、柴田家をはじめとする多くの廻船問屋が軒を連ね賑わいを見せていたのです。横須賀の城下町ではこの湊から年貢米や特産物を江戸へ海上輸送する湊町として繁栄、その中心が西田町、東田町、東新町周辺であったと考えられます。

中央にかつて運河と言われた名残の河川。侍屋敷と対岸を木造の橋がつないでいる清水邸船着き場
清水邸船着き場

ところが、前述のように横須賀城下町にとって横須賀湊の役割は大きいものであったのですが、1707年(宝永4年)の大地震により湊機能は大きく衰退し、城下町にも大きな変化をもたらしました。大地震後の18世紀初頭の城下絵図によれば、大谷町や南町などの侍町、足軽町の敷地に大幅な減少がみられます。この時期、石高も急激に減少しており、それが家臣数の減少につながり、その後の絵図にみられるように侍屋敷地の減少となって表れたのでした。

また、潟湖や入江が干上がる程の大きな地形変動だけでなく町屋においても多くの家屋が倒壊する等の被害を受けたものの、横須賀城下では同じ場所において震災からの復興を果たしています。横須賀同様、海浜付近に立地していた白須賀、新居、舞阪では地震後、同じ場所での復興を断念し移転せさるを得ない程の被害を受けたのとは対照的です。横須賀の町屋は、池や干潟を埋め立てた脆弱な地盤上ではなく砂州や扇状地上の比較的安定した地盤上に立地していたためで、それが幸いし大地震後も移転することなく同じ場所で復興、存続し、江戸時代の風情を今に伝えることになったのです。

横須賀城下町に遺る歴史的建造物の多くは昭和初期にさかのぼるもので、軒を連ねる商店や住宅はさらに新しいものですが、南北に長い短冊形の敷地は江戸時代の町屋としての屋敷割を踏襲しており、そん中に整然と軒を連ねる町並みは、どことなく江戸時代の風情を感じさせる町並みとして認知されるようになりました。

横須賀城下町の代名詞とも言える三熊野神社大祭(以下、三社祭礼)を主祭する三熊野神社は、文武天皇の皇后に由来する神社で、横須賀城下町のシンボル的存在となっています。三社祭礼は、地固め舞、田遊びの神事と、祢里(山車)巡行と狂言などの付祭に分けられ、付祭は14代城主西尾忠尚の家臣が江戸天下祭の文化を伝えたものだ云われます。毎年4月の第一金曜日から日曜日の3日間にかけて開催され、神輿の渡御とそれに従う勇壮かつ華麗な13台の祢里の曳き廻しは圧巻の一言、町は祭り一色となります。伝統と格式ある三社祭礼は、まさに江戸時代の横須賀城下町の景観そのものだと言っても過言ではないでしょう。

街道沿いで軒を連ねる古い商家群の中でも一際特徴的な建物が老舗割烹旅館の八百甚です。現在の建物は昭和初期のものですが、入母屋屋根の下に廻る庇、二階の高欄、意匠を凝らしたガラス戸など往事の建築の流行をよく伝えており、横須賀城下町のランドマークとなっています。

古い商家。一際特徴的な建物の老舗割烹旅館の八百甚。入母屋屋根の下に廻る庇、二階の高欄、意匠を凝らしたガラス戸
八百甚

江戸時代の横須賀城下の隆盛を物語る建物と言えば、廻船問屋を営み藩の御用商人でもあった清水家住宅です。町屋特有の南北に長い短冊形の敷地内に主屋、離れ、土蔵などの建造物がよく遺されています。先述のようにかつては下紙川の運河の船着き場となっていました。屋敷の南には江戸時代中期にさかのぼる回遊式庭園が整備され、今でも湧水による清らかな園池とそれを取り囲む樹木が織りなす四季折々の風情は、御用商人としての風格を漂わせながら来訪者を和ませてくれます。

「どことなく」感じられる横須賀城町の江戸風情の根源とは、上記のように普段あまり気にも留めていかなかった痕跡の中にひっそりと存在し、その痕跡は決して雄弁ではなくむしろ寡黙で、なかなか表に出てくるものではありません。したがって、現在よりも陸地の奥部にまで展開していた潟湖と入江、それらを利用した湊、城下町を縦横に走る運河、そんな湊町としての横須賀城下町の景観とは、現況からだけでは想像することすら困難です。しかし、古絵図や古地図をもとに現況に子細な目を投じてみるとディープな横須賀城下町の景観がよみがえります。もちろん、横須賀城下町のニッチでディープな魅力はこれだけに留まりません。今回紹介したのは、ほんの極一部です。またあらためて紹介していきたいと思います。

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