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第708回 「掛川三城」

2018年1月19日更新

掛川市こども希望課長 松浦大輔

掛川市には、歴史に名を残す三城があります。それは、「掛川城」「高天神城」、「横須賀城」です。昨年のNHK大河ドラマ「女城主直虎」でも高天神城跡が紹介されました。
また、昨年、市内の図書館(大東図書館、中央図書館)で、「掛川三城ものがたり展」が開催されました。今年も、1月6日(土曜日)から1月21日(日曜日)の間、大須賀図書館で開催されています。

そのようなことから、掛川三城を見て回ろうと思い、先日、三城を見てきました。

交通案内の地図。高天神城跡、横須賀城跡の場所が赤く記されている。
(掛川市観光パンフレットより)

最初に訪れたのは、高天神城跡です。北口駐車場から登って行きました。

高天神城跡のハイキングマップ
(掛川市観光パンフレットより)

戦国時代の高天神城の想像図
(掛川市観光パンフレットより)

説明看板によると、高天神城は、室町時代、駿河の今川氏が遠州侵攻の拠点として築いたとされ、戦国時代には駿河・遠江をめぐる武田氏、徳川氏の激しい攻防の舞台となりました。元亀2年(1571)には、武田信玄が徳川方となった高天神城を攻めており、このときは、大規模な戦闘は行われませんでした。天正2年(1574)5月には、信玄の息子勝頼が当城に攻め寄せ、徳川方の城主小笠原与八郎長忠(氏助)は1ヶ月程度の籠城と激しい戦闘の末、開城した武田方に降っています。その後、武田方となった高天神城は徳川家康の攻撃をたびたび受けることとなります。天正3年(1575)5月の長篠の戦い以降、勢力が衰えた武田氏は当城を支えきれず、天正9年(1581)3月22日、ついに落城しました。高天神城はその後すぐに廃城となり、現在に至っています。

奥に延びた道手前には「搦手門址」と書いている杭がある
搦手門址
真ん中に石でできた階段が伸びているその周りは木がはえている
搦手門址を通った後の階段
鎧と着物を着た看板がある
御前曲輪跡

搦手門址を通り、階段を登って行きますが、高天神城は、天然の要害で「難攻不落の名城」と言われたとのことで、傾斜もあり歩くのも大変でした。搦手門は、城の裏門に当たり、城南から出て来る者を搦め捕る意味からこの名があるとのことです。ここで、武田と徳川の戦いが行われたのかと、当時を想像しながら散策しました。

 

御前曲輪跡から見た景色。街を見渡せる。空には青空が広がっている
御前曲輪跡からの景色

御前曲輪跡からの景色は良く、当日は富士山が綺麗に見えました。

 

大河内幽閉の石窟
大河内幽閉の石窟

観光パンフレットによると右の写真の大河内石窟は、天正2年の開城時に、最後まで武田勝頼に降伏しなかった大河内源三郎政局が7年に渡って幽閉された石窟とのことです。

 

石垣がいろいろな場所にある大きい木が生えている
横須賀城跡

高天神城跡の次は、横須賀城跡へ行きました。

説明看板によると、横須賀城は戦国時代末期、天正六年から八年(1578から1580)にかけて、徳川家康の家臣大須賀康高によって築かれた城であり、当初は約六キロメートル東に存在する武田方の高天神城を攻めるための軍事拠点として使用されました。

天正9年に高天神城が落城すると、江戸時代にかけて城は近隣支配の拠点となりました。
城主は築城者大須賀氏の後、渡瀬氏、有馬氏、松平氏、井上氏、本多氏と続き、天和二年(1682)からは、西尾氏八代が城主となりました。
明治二年(1869)の廃城後は、城に関する土地や建物等が民間に払い下げられ、横須賀城はその姿を消しましたが、昭和五十六年(1981)五月八日、国の史跡に指定されています。

横須賀城の特徴は、中世城郭と近世城郭の二つの構造を持っている平山城であること、大手門が二箇所にあること、宝永地震(1707)までは城内に船着場があったこと、河原石だけの石垣がみられることなどがあげられます。

 

掛川城
掛川城

最後に、掛川城に行きました。
現在の掛川城は、平成6年(1994)に日本初の本格木造で再建されました。

 

高天神城跡、横須賀城跡、掛川城と見て回りましたが、掛川三城は、掛川市にとって貴重な歴史資源です。全国の皆さんに知っていただき、多くの方にお越しいただきたいと思います。

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