遠州地方に報徳を広めた
二宮尊徳との出会い
尊徳に学び、報徳を広めた岡田良一郎
(黒田清輝筆静岡県指定有形文化財)
岡田良一郎は、旧倉真(くらみ)村庄屋の岡田佐平治と貞の長男として、天保10年(1839)に生まれました。佐平治は、乙星耕地報徳社(おとほしこうちほうとくしゃ)(現在の倉真報徳社)を立ち上げ、安居院義道庄七(あごいんぎどうしょうしち)の仲介で二宮尊徳と会い、報徳思想を学びました。そして、尊徳から直接伝授さた報徳仕法「農村復興・財政立て直し」のやり方を基に、遠州地方に報徳運動を推し進め、各社の報徳社を誕生させました。尊徳と報徳思想に深い感銘を受けた佐平治は、尊徳に許可をもらい、良一郎(当時16歳)を栃木県日光市にあった二宮塾に入門させました。良一郎は、尊徳から「遠州の小僧」と可愛がられ、尊徳の長男「尊行(そんこう)」、高弟の「富田高慶(とみたこうけい)」などから直接指導を受け、4年余の塾生活では、尊徳が行う実践を通じての報徳思想・報徳仕法を身につけ、掛川に帰郷しました。そして父佐平治と共に、遠州地方に報徳運動を根付かせたのです。
遠州の拠点「遠江国報徳社(とおとうみのくにほうとくしゃ)」を設立
岡田佐平治は明治8年(1875)各地の報徳社を連合させ、浜松に遠江国報徳社を設立し、自らが初代の社長になりました。佐平治は社中を統率し、報徳の信念に基づく誠心に溢れた質実剛健の社員を結集していきました。
良一郎は明治9年(1876)佐平治の後を受けて第2代の社長となり35年間にわたり報徳運動の指導者として、多くの実績を残しました。その実績は、報徳思想を元に、「国利民福(こくりみんぷく)(注)を図る」という一言に尽きます。その目的達成のためには、報徳社を拡張していくことが大きな課題と考え、全国に足を運び、報徳思想に基づく農村復興の重要さを説き、各地に報徳社を増やしました。晩年には報徳社が700余になりました。
(注)国利民福 国民の生活を向上し、地域の人々を幸せにする。
明治天皇座右の銅像「金次郎像」を参考に作られた、掛川駅北口の金次郎像
現在も活動中の掛川市内の報徳社
現在も活動中の掛川市内の報徳社
- 大和田報徳社
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編集/大日本報徳社 宮川正夫 電話:0537-22-3016