総合トップ観光・文化・スポーツ学びと文化歴史家康が遠江に侵攻、今川家は滅亡(1568から1569)

家康が遠江に侵攻、今川家は滅亡(1568から1569)

2017年10月6日更新

家康と信玄が同盟を結び、今川領への侵攻を図る様子を表した図。
1568年、家康と信玄が同盟を結び、
今川領への侵攻を図る。

1560年、今川義元が桶狭間で討死すると、今川家は義元の子、氏真(うじざね)が跡を継いだ。氏真は蹴鞠を好み、和歌をたしなむ文化人であったようだが、軍事に関する才覚は持ち合わせていなかったようだ。これを知った徳川家康と武田信玄は、今川領である遠江と駿河を大井川を境に分け合うという密約を結ぶ。

1568年、信玄はそれまで今川・北条と結んでいた甲相駿三国同盟を破棄し、電撃的に駿河へ侵攻する。今川軍も応戦するものの戦い半ばで総崩れとなり、氏真は駿河を放棄し朝比奈氏の掛川城に籠城する。この氏真を攻めたのが、遠江へ侵攻した家康である。

家康は遠江支配の拠点としての掛川城を手に入れるため、城の周囲にいくつもの砦を築き、完全に包囲した上で激しい攻撃を加え続けた。しかし、今川、朝比奈軍もこれに応戦し、また掛川城の防御が堅固であったため、半年近く経っても城を落とすには至らなかった。

掛川城に籠城する今川・朝比奈軍と、これを攻めるため周囲に砦を築いた徳川軍の図
1568年、掛川城に籠城する今川・朝比奈軍と、これを攻める徳川軍。

双方に多大な死傷者が出る中、武田軍側が密約を破り遠江侵攻の気配を示したため、家康は長陣を避け、氏真側に有利な条件を示し和議を結ぶ。氏真は小田原の北条氏を頼って落ち延び、今川家は事実上滅亡した。
掛川城を手に入れた家康は、この後およそ22年の間遠江を統治する。
また、これ以降徳川、武田の抗争が表面化する。この地での両軍の戦いは、1581年の高天神城落城までの13年に渡り続く。

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