古代の掛川

2020年4月9日更新

旧石器から縄文

掛川最古の人類遺産

先の尖った堂山遺跡(左)と凹凸があり縦長の和田岡の画像
左:堂山遺跡・右:和田岡

掛川では、まだ確実な旧石器(打製石器)は発見されていません。しかし、市北部で発見された石器を旧石器とみる説もあります。今のところ和田岡と堂山遺跡(原里)から採集された石器が掛川最古の人類遺産とされています。年代はおよそ1万3千年前で、旧石器時代から縄文時代へ移る時期にあたります。槍の先に付けて狩りをした道具のようです。

市内最古の土器

格子目や山形が刻まれた押型文土器の画像
萩ノ段遺跡の押型土器

萩ノ段遺跡(寺島)や向畑遺跡(八坂)から押型文土器と呼ばれる土器の破片が発見されています。この土器の模様は、円筒状のものに格子目、山形、楕円を刻み、それを押しつけながら回転させてできたものです。約8000年前に中部地方より西に広く流行したもので、掛川市内では最も古い土器です。日本で土器が作られ始めたのは約13000年前と言われていますが、古い土器が少ない遠州地方では、貴重な資料となっています。
縄文土器は深鉢と浅鉢に分けられます。深鉢は煮沸用でドングリやトチの実のアク抜きや魚貝類などを煮たりしました。浅鉢は食器でした。

縄文人の道具と食料

縄文時代には、弓矢、石のおもり(漁網のおもり)、石皿(石臼のようなもの)、石おのが使われていたようです。
これらの道具を使って、シカ、イノシシ、ノウサギ、タヌキ、ニッポンザル、ニホンオオカミ、ツル、ウミウ、サギ、キジ、トビ、ハト、コイ、フナ、サケ、アユのような動物や鳥、魚を食べていたようです。
また、ドングリ類、クリ、クルミ、カヤなども食べられていたようです。

縄文人の家

地面を掘りくぼめて作る竪穴住居跡の画像(右)とその復元図
中原遺跡(吉岡)の竪穴住居跡とその復元図

掛川では、地面を掘り下げ、周囲に土を積み、その上に屋根をつけた竪穴住居しか発見されていません。
市内の縄文遺跡は全部で50数カ所知られています。そのうち、中原(吉岡)、源ヶ谷遺跡I地点(秋葉路)、原(西郷)、向畑(八坂)などの遺跡では住居跡を発見していますがムラ全体の姿ははっきりしていません。また、原田小学校付近の上ノ段遺跡やその西側の萩ノ段遺跡は大きな集落跡と思われますが、状況ははっきりとわかっていません。
こうした集落は、台地や丘の上にありました。

縄文時代の社会

縄文時代の掛川には、120人から150人が住んでいたと考えられています。そして、抜歯の習慣があり、成人や結婚の時、決められた歯を抜いていました。また、成長してからは親子関係よりも年齢による横のつながりが大切にされていたようです。縄文人は亡くなるとみんな同じように地面に掘られた穴に埋められ、皆平等でした。しかし、掛川市地域ではこのころの人骨や墓穴はまだ発見されていません。

弥生時代の掛川

稲作の始まり

掛川市地域に稲作の情報が伝わったのは、遅くても2500年前ごろでした。そして、米作りが行われた最初の集落は、原野谷川と逆川の合流点近くにある原川遺跡であると思われます。約2200年前の集落です。また、高田遺跡(高田)からは、弥生時代の米が発見されています。

弥生時代の集落

米などを蓄える高床式倉庫がある弥生時代の集落のようす
弥生のムラの様子

萩ノ段遺跡(寺島)や向畑遺跡(八坂)から押型文土器と呼ばれる土器の破片が発見されています。この土器の模様は、円筒状のものに格子目、山形、楕円を刻み、それを押しつけながら回転させてできたものです。約8000年前に中部地方より西に広く流行したもので、掛川市内では最も古い土器です。日本で土器が作られ始めたのは約13000年前と言われていますが、古い土器が少ない遠州地方では、貴重な資料となっています。
縄文土器は深鉢と浅鉢に分けられます。深鉢は煮沸用でドングリやトチの実のアク抜きや魚貝類などを煮たりしました。浅鉢は食器でした。

弥生時代の土器

このころの土器には壷、甕、高杯の3種類がありました。壷は飲料水や酒、木の実、米などを貯蔵するために使われていました。甕は、米を調理するためのものでした。高杯は、浅鉢に細長い脚を付けたもので食べ物を盛り付けるための器でした。

長谷の銅鐸

江戸時代の歴史書「掛川誌稿」に描かれた長谷の銅鐸のイメージ図
長谷の銅鐸の画像

1772年(明和9年)長谷の小出ヶ谷から銅鐸が発見されたと江戸時代の歴史書『掛川誌稿』に書かれています。現在この銅鐸は所在不明となっていますが、別の書物に銅鐸の詳しい図が載っています。
銅鐸は水田稲作を基盤とする弥生文化によって生まれたもので、人里離れた所に埋められているところから、何らかの農耕儀礼に使われていたと言われています。
この長谷から見つかった銅鐸は日本の銅鐸分布の東限になっています。

弥生時代の墓

木棺を入れるため中央に掘られた穴や四角に区画するために周囲に掘った溝の画像
山下遺跡の方形周溝墓

弥生時代には方形周溝墓と呼ばれる墓が登場します。これは、周囲に溝を掘って四角に区画し、その中央に掘られた穴に亡くなった人は木棺に入れられて埋葬されます。米作りによってムラの中で貧富の差や階層が生じ、ムラの長が他の人々と区別されてこのような墓に埋葬されたようです。市内では最古(約2千年前)と言われる山下遺跡(各和)をはじめ、不動ヶ谷(大池)、岡津原III(岡津)、大ヶ谷(成滝)、原(上西郷)、大六山(満水)、六ノ坪(秋葉路)、踊原(満水)、原新田(上西郷)、中原(吉岡)、前坪(長谷)などの遺跡が知られています。
副葬品として管玉やガラス小玉が出土したり、原新田遺跡では、弥生時代としては県内で唯一、鉄剣と共に埋葬されていました。
そして、掛川市地域は和田岡古墳群に象徴されるような古墳時代へと入っていきます。

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