高天神城と六砦

2019年9月2日更新

高天神城と六砦

高天神城の築城年は不明だが、中世に築かれた山城であると考えられている。この時代、この地域は遠江国といい、斯波氏が守護職として支配していたが、永正5年(1508)隣の駿河国の守護職であった今川氏親が遠江の守護職に補任され、今川氏の領有するところとなった。
桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れると、今川家は衰退。三河の徳川家康、甲斐の武田信玄が勢力を広げ、高天神城の時の城主小笠原与八郎長忠(氏助)は家康の支配下に入った。その後、徳川と武田が攻防を繰り返し、天正2年(1574)高天神城は信玄の息子 勝頼により落城した。
その後、徳川家康は高天神城奪還のために、横須賀に砦(横須賀城)を作り、さらに高天神城を孤立させるため周囲を囲む攻撃用の砦を6つ作った。これらは「高天神六砦」と呼ばれ、北から小笠山・能ヶ坂・火ヶ峰・獅子ヶ鼻・中村・三井山があった。
この砦により、高天神城への補給路が断たれ、兵糧・弾薬が少なくなるだけでなく、高天神城からの脱出も出来なくなった。城番 岡部丹波守長教らは覚悟を決め、天正9年(1581)全ての兵が城から討って出て、激しい戦いの末全員討ち死にし、徳川により落城した。

「高天神六砦」の紹介

【小笠山砦】

高天神城跡より北方約4キロメートルの位置、掛川市入山瀬に所在する、標高250メートルの小笠山山頂付近に築かれた。砦としての遺構整備はされていないが、各曲輪や横堀・土塁などが残存し、標柱が設置されている。

【三井山砦】

高天神城跡より南へ約3キロメートルの掛川市大坂に所在する。ここは、小笠山丘陵の南へ張り出す台地の先端部にあたり、西及び北側は尾根続きとなっているが、東に小笠平野が一望でき、南は、遠州灘を望む地形である。築城は天正7年10月で、酒井与四郎重忠が守備していたといわれているが、その前年から三井山周辺で戦いがあったことなどから最初の築城は更に遡ることも考えられる。茶畑の開墾等により一部削平されており、遺構の残存状態は悪く、標柱・説明板等が設置されているのみである。

【中村砦】

高天神城跡より東南方向約3キロメートルの掛川市中に所在する標高約30メートルの台地で、現在は独立している。北方は雑賀館跡や帝釈山砦跡が所在する砦が続き、南側は入り組んだ入江となっており、海運による兵糧運搬路としても重要な地域であったといわれている。築造は天正7年10月で、堀を作り高土居を築き髙塀を設けたといわれている。現在、周辺部では宅地化が進み、南西端には若宮神社が建立されているが、遺構の残存状態は良好である。

【火ヶ峰砦】

高天神城跡の東北東方向約1.5キロメートルの掛川市中方・下土方・岩滑・中地区とを境とする丘陵にある。高天神六砦の中でも最も高天神城跡に近い位置にある。築城は天正8年で、大須賀康高が守備していたとされている。位置に関しては二説あり、定かでないが、砦の北側の主郭跡といわれる部分以外は消滅しているが、南側では残存状態は良好である。

【能ヶ坂砦】

高天神城跡より北北東約2キロメートル、掛川市小貫の県道掛川大須賀線の西側丘陵にある。ここは、小貫と下土方地区の境にあたり、元々番所が置かれていたといわれている。築造は天正8年で、本多豊後守が守備したといわれている。現況は、山林及び一部茶畑であるが、その周囲は現在、ほとんど開発により削平されてしまい、残存状態は悪い。また、標柱及び案内看板が設置されている。

【獅子ヶ鼻砦】

高天神城跡より東へ向約3キロメートル、菊川市大石の半島状に突き出た台地先端部に位置する。高天神六砦の中で唯一掛川市以外の砦跡。現在でも、曲輪・堀切が残存し、案内板・説明板等が設置されている。

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