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第457回 町の駄菓子屋さんについて思うこと

2013年12月13日更新

掛川市消防本部 予防課長 松井 務

正面から撮影した松井菓子店(全景)の写真
松井菓子店(全景)

私の実家は、市のほぼ中央部に位置する西町にある松井菓子店です。菓子店といっても子供相手の小さな駄菓子屋です。地域の子供や大人たちに愛されて52年続いています。
店に来る子供たちからは、何故か「たぬきや」とか「まつい」などと愛称で呼ばれてきました。狭い店内には、天井から商品が入った袋があちらこちらとぶら下がり、10円のアメ玉やガムが入ったビン、銀玉鉄砲や音の出る玩具鉄砲が陳列されているケース等が所狭しと置かれ、ごちゃごちゃした店内です。よく親父が、「商品は整然としているより、欲しい物を探し当てるくらいの方が子供達には興味があって良いんだよ」と言っていました。
夏には、アイスやビンラムネ、玩具用花火(線香花火・流星・ドラゴン・蛇花火・煙幕・爆竹・クラッカー・かんしゃく玉)など、秋の祭典には、練炭を熾しておでんも売りました。
正月には、凧や羽子板、こま等、ベーゴマも売りました。例えると子供が欲しがるような品がある何でも屋でしょうか。

 

近くの幼稚園児が、お金の使い方の練習にと50円、100円玉を握りしめ先生に連れられて毎年来てくれたこともありました。最近は子供の数が減ったのか、また塾通いで忙しいのか、店に訪れる子供の数がめっきり減りました。
この店を近年は細々と一人で切り盛りして来た母は92歳と高齢になり、そろそろ店をたたもうかと相談を持ち掛けるようになりました。店に来た大人の中には、「昔、子供の頃によく来たよ~懐かしいよ“おばさん”!」と話してくれる大人も多くいます。
そこで、町の駄菓子屋さんについて思うことは、昔は、各地に子供が一人で行ける行動範囲の中、駄菓子屋さんはいくつもありましたが、近年はめっきり減ってきてしまったことに寂しさを感じます。店の経営者も高齢になったり、子供相手の商売は儲からないとか、後継者がいないなどの理由で存続が出来なくなっているのでしょうか?
コンビニは現代の駄菓子屋、といわれたりしますが、小遣いを持ってコンビニに走り、お菓子や飲み物を買い、マンガや雑誌を抱えて家へ帰る…というのでは、やはりかつての駄菓子屋のイメージとはずいぶん違うもののような気がします。

松井菓子店の店内の様子
松井菓子店(店内)

町の駄菓子屋さんのもつ“ぬくもり”は、その店のおじさん・おばさんの人柄や、そこに集まってくる仲間でお馴染みさんの顔ぶれによっても決まると思います。駄菓子屋はキャラメルやあめを買うだけのところではなかったと思います。店の前に置かれた縁台に座り、アメをなめなめ男の子ならペッタンやけん玉、女の子ならおはじきやお手玉に興じたりと、夕暮れまで遊んだと思います。つまり駄菓子屋の存在は、単なる菓子屋ではなく、子どもには欠かせないたまり場であり、社交場であり、買い物や金銭感覚を養う場であり、今なりにいえばコミュニケーションや社会勉強の場でもあったと思います。
握りしめたわずかな小遣いの中で、お金の遣り繰りを考えて店内をあれもこれもと歩き回ったり、くじ引きなどして“大当たり”が出るか“スカ(ハズレ)”なのかとコーフンした幼少時期が誰でもあったと思います。だからこそ、大人になった今でも駄菓子屋がむやみに懐かしいと思う人が多いのではないでしょうか。人には誰でも昔の忘れがたい“あのころ”がたくさんあると思います。“あのころ”に出会ったたくさんの駄菓子やおもちゃ、そして友だちは、掛け替えのない宝物として末永く心に残っていくものだと思います。この良き駄菓子屋文化の世界をこれからの世代にも継承して行ってくれればよいなと願っている今日この頃です。
これから、年の瀬を迎えるにあたり火の元には十分に気を付けてお過ごし下さい。

 

パチンコガムの駄菓子の写真

ケースに陳列されている駄菓子の写真

 

歌舞伎役者が描かれている凧と武将が描かれている凧の写真

色々な動物のイラストが描かれているくじの写真

 

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