掛川市都市政策課長 林和範
掛川城の周辺には、木造で復元された天守閣を始め重要文化財の二の丸御殿、大日本報徳社大講堂など貴重な建造物が数多くあります。今回は、大日本報徳社の魅力的なふたつの建物を紹介したいと思います。
淡山翁記念報徳図書館(写真1)
始めに紹介するのは、この界隈を訪れた人の目に自然に止まる「淡山翁記念報徳図書館(写真1)」です。淡山とは、報徳運動をリードし明治7年に掛川信用金庫の前身である資産金貸付所を創設、明治10年に多くの人材を輩出した私塾冀北学舎を開設、明治13年に開学した掛川中学(掛川西高校の前身)の初代校長になった岡田良一郎大日本報徳社第2代社長のことです。
この建物は、昭和2年に建てられた県内最古の民間図書館であり、昭和27年から44年まで公立図書館として使われていました。構造は、鉄筋コンクリートレンガ調タイル張り2階建て、建築面積96.6平方メートル、延べ床面積179.4平方メートルとなっています。当時木造建築が多いなか、鉄筋コンクリートで建てられたのは木造の図書館が関東大震災で崩壊、焼失したためということです。
間取りは、1階は書庫と受付、2階は閲覧のための広間となっており、1階で本を借りて2階で読書するというスタイルだったようです。2階へ向かう階段の窓は(写真2)は、上下階とも同じデザインで広間の縦長の窓(写真3)とともに日差しがたっぷり入ってきます。モダンな洋館風図書館の広間で本を読む当時の利用者の誇らしい気持ちや高揚感が伝わってくるようです。
2階へ向かう階段の窓(写真2)
上下階とも同じデザインで広間の縦長の窓(写真3)
日本瓦葺きの市立中央図書館(写真4)
この周辺は日本風の建物が多いなか、この建物は洋館風ながら華美な装飾のない落ち着いたたたずまいで、周囲の風景に溶け込んでいるように思え、図書館という公共的な建物ですが、規模が小さいため個人の洋館の趣があります。
また、その向かいには日本瓦葺きの市立中央図書館が建っています(写真4)。道をはさんで建つ古い洋風の図書館と新しい瓦葺きの中央図書館は、それなりに調和がとれ対照的でありながらも落ち着いた景観を生み出していると思います。
次に紹介するのは、「仰徳(こうとく)記念館(写真5)」です。敷地の奥まった場所にある平屋の建物で、隣接する重要文化財の大講堂の存在感が大きくて(写真6)あまり目立たない建物です。
仰徳(こうとく)記念館(写真5)
隣接する重要文化財の大講堂(写真6)
これについては平成24年作成の「仰徳記念館・仰徳学寮及び冀北学舎調査報告書」をもとに紹介します。
この建物は、有栖川宮樽熾仁(たるひと)親王邸として明治17年に建てられ、記念館は日本館の一部を同じ敷地内にある仰徳学寮と共に、岡田良一郎第2代社長の子で文部大臣や宮内大臣を歴任した一木喜徳郎第4代社長が昭和13年に宮内庁から下賜、移築されたものです。
明治17年地図の「有栖川宮邸」では、ジョサイア・コンドル設計のレンガ造りの本館(熾仁親王)・若宮館(威仁・たけひと親王)と、少し離れてもう1棟建物が記されていますが、それが日本館の一部なのか別の建物かわかりません。地図が書かれた時点では、まだ日本館は完成していなかったようです。明治37年の「有栖川宮殿地図(宮家より宮内省が引き渡し終了時に授受したもの)」では、本館とは違う細いタッチで日本館が描かれており、設計は当初宮内省で行う予定だったのを明治政府の殖産興業を支えた工部省が行っています。
親王邸は、明治29年に皇室所有となりましたが、明治30年から36年まで熾仁親王の御子息の威仁親王が新邸の完成までの間借用して住んでおられ、仰徳記念館の建物は「御座所」と書かれており、報告書では威仁親王の居室と推察しています。また、日本館の北側には、別棟の二階建御殿が建てられ、一階は威仁親王御子息栽仁(たねひと)王の居室と推察される「若宮御座所」と記されています。その後、明治37年に霞ヶ関離宮となり各国皇族の接遇や旅館等にあてられ、御座所は日本館広間になりました。明治43年には日本館大修理が行われ、日本館広間は従者室になりました。大正10年から約2年間にわたり霞ヶ関離宮は、東宮(裕仁親王)の仮御所となり、日本館の北西側に新御殿(大正16年秩父宮邸日本館として移築、その後昭和46年京都大覚寺に下賜、貴賓館として現存)が建てられています。大正13年からは帝室林野局仮庁舎事務所となり昭和12年末に解除されました。
明治37年の地図を見ると本館の1階は、舞踏室、客間、玉突場、食堂など、2階は、客間、婦人客間、複数の御座所などが記載されています。このことから、本館は公邸のような役割を担っていたのではないかとも思われます。日本館については本館のように詳しいことは記されていませんが、隣接して若宮御座所が建てられていること、東宮仮御所時代には新御殿が建てられていることから、日常的には日本館が使われていたことも考えられます。庶民の感覚ですが、欧化政策のもと洋風の本館を建築したものの、やはり和風の建物の方が暮らしやすかったのではないかと思うところです。
仰徳記念館は、大日本報徳社に下賜が決まった時には霞ヶ関離宮御殿日本館(仰徳学寮は霞ヶ関離宮事務所)と称されていました。また、下賜されたときの通知書には、床面積81.5坪と記されていますが、実際に建てられているのは68.44坪となっています。明治43年の大修理によって、1つ目に桁行が11.5間から15.5間に、2つ目に3室から5室構成に、3つ目に吹放し縁側がガラス戸を建て込んで屋内廊下に、4つ目に畳敷きの和風設えから洋室にと大きく改造がなされたことが確認されています。改修によって和風の建物が和洋風となり御座所当時の雰囲気をどこまで残しているのかわかりませんが、報告書では、1つ目に長押を回した洋間、2つ目に華麗に彫刻された白大理石の暖炉、3つ目に一部に残る照明器具、4つ目に柱や長押の質の良い檜材、5つ目に張り付け壁や天井など、それらは数少ない宮廷建築の片鱗をよく表現している建造物であるとしています。(写真7、8)親王の御座所から従者室に改修されたとはいえ国賓と共に離宮に滞在する従者であることから、それなりの人たちが利用していたものと思われ、これらの方々をお迎えしていたこの上品な建物を大日本報徳社の応接間のようにしたいと一木社長は考えたのかも知れません。
(写真7)
(写真8)
ここで、なぜ離宮の一部が掛川市にあるのかについては、大日本報徳社とその関係者や報徳運動が皇室、宮内省との関係が非常に近かったのではないかと考えられます。また、掛川に移築されなければ、昭和20年5月25日の空襲により本館とともに焼失していたと思われることから、貴重で幸運な建物だと思います。
この建物の他にも東の掛川古城にある竜華院大猷院霊屋から西の松ヶ岡(旧山﨑家住宅)までの比較的狭い範囲に魅力的な建築物がいくつもありますので、興味のある方は是非ご覧いただければと思います。また、普段非公開となっている建物もありますので事前の確認をお願いします。