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第681回 「十内圦(じゅうないいり)を通じて水の大切さを知る」

2017年8月29日更新

掛川市監査委員事務局長 赤堀賢司

今年の夏は非常に暑くなると予想されていましたが、蓋をあけてみたら天候不順で、日差しが強く夏らしい日がなかなかありません。また、局地的豪雨が年々増加しているように感じられます。

豪雨等による水害は本当に困りますが、日照り続きで水がないのも困ります。何とかもう少し塩梅(あんばい)良く降ってくれないものかと思います。

今回は、農業用の水を確保しようと大変な苦労をして作られた十内圦について紹介させていただきます。圦とは、川や池の土手に樋を埋めて水の出入りを調節する場所のことで、用水の施設です。

「川はあるが水に恵まれない土地」

青々と広がる田園風景
大須賀区域に広がる田園風景

私の地元である市南部の大須賀区域は、良い地下水に恵まれ、昔から酒、味噌、醤油などの醸造業が営まれてきました。また、水田農業が盛んで、水田が広がる風景が印象的な地域です。

現在の水田は大井川用水を利用して耕作されていますが、大井川用水がなかった時代は、水不足に非常に苦労した地区もありました。

大須賀区域の現西大渕地区は、300年ほど前は西大渕村として西大谷川を隔てて西側の本村と東側の村東に分かれていました。村東は比較的水利が良く良田に恵まれていましたが、本村は水利に乏しく米作りに適さない土地でした。また、西大渕村から南西に位置する今沢新田の田畑も同様で、村人は水を引くことに苦労したようです。耕地は100ヘクタールもありましたが、作物がよく育たず、水争いもあったそうです。特に日照り続きの年などには、せっかく育てた稲が枯れてしまって、村人の暮らしが脅かされることがしばしばあったといわれています。

この地は東西を川に挟まれていますが、東側の西大谷川は天井川で、常には水が流れていません。また、西側の弁財天川は、水面が海面とほぼ同じ高さのため、どちらの川からも水を引くことができません。

 

「非凡な発想、たゆまぬ研究と努力」

正保2年(1645年)頃、西大渕村の庄屋であった名倉五郎助は、村人の苦しい生活を救うため、何かよい方法はないかと考え続け、村東に流れる坊主渕川の水を西大谷川の下に埋樋を通して西側に引き入れることを考えつきました。

五郎助は、凧を何日もあげて西大谷川の両側の土地の高低を測ったり、川底を3メートルも掘って地盤を調べたりして計画を練り上げ、城主(井上正利 第11代1628年から1645年)に、『埋樋設置』計画とともに、工事を願い出ました。しかし、土木工事の技術が進んでいなかった時代、普通ではとても考えられる事業ではなく、城主や城役人たちに「到底できる工事ではない」と言われ、許してもらえませんでした。

坊主渕川の水を西大谷川の下を通って西側に引き入れるために、埋樋(高さ80センチメートル、長さ約70メートル)の設置計画を表した画像

普通ならここで諦めてしまうところですが、五郎助はどんな苦心をしても水を通すという望みを貫き、毎日毎日、蔵の中に一人とじこもって、切り石の「埋樋」をする模型作りを試みました。更に、切り石のつぎ目の水もれを防ぎ強度を増すために、当時は交通の便が悪かった相良まで出向いて、「たたき(注) 」で固める研究にも取り組み、実際に貝殻の粉末や、かなり高価だった石綿を混ぜて、つぎ目を固める実験を重ねたそうです。

(注)たたき・・・赤土や石灰、にがり、貝殻で硬く固めた床材

埋樋の断面図。高さ80センチメートル、横が74センチメートル。1枚の石の厚さは13センチメートル。3方向を石で囲い、底辺の部分には粟石と丸太を敷きつめてある。
構造断面図

埋樋の内部写真
内部写真

 

「奉行柳原十内に引き継がれた熱意」

正保2年(1645)、五郎助は新たに横須賀藩の第12代藩主となった本多利長に再び用水工事を願い出ました。これまでの研究の成果をまとめ、以前よりも詳しい設計書を添えて差し出し、「五郎助の生命(いのち)にかけても完成させる」と言ったそうです。利長は、土木奉行柳原十内に対し『用水工事設計書』を基にした計画を調べさせたうえ、これを許可し、工事監督を命じました。

工事は、西大谷川の高い堤防を切り割ることから始められ、石材(伊豆石)は伊豆東海岸などから横須賀港に陸揚げされました。村人たちも工事に参加して順調に進んだといわれていますが、秋も半ばになって大雨で西大谷川の鉄砲水が、堤防を切り開いた工事現場をおそいました。田畑一面が泥海となり、その年は一粒の米もとれない程の大被害を受けました。

全くの天災で、五郎助の計画に問題はありませんでしたが、村人の明日の暮らしなどに思いを巡らせ、自責の念に堪えられなった五郎助は、工事小屋で自刃して村人と城主に詫びたとされています。

坊主渕川に取水口を設け西大谷川の下を通るように作られた十内圦の場所を表す地図。

五郎助と共に苦楽を分かちあい、工事に関わってきた柳原十内は、「庄屋名倉五郎助の計画には、いささかも手落ちはない。埋樋(うめとい)を修復することによって、この工事は完成する。
わしは庄屋の志をついできっと仕上げる」と言ったとされ、その熱意が村人たちに伝わり、再び工事が始められました。

翌年の正保3年(1646年)通水の日を迎え、五郎助の計画通り、坊主渕川の両岸に土のうが高く積み上げられました。十内の指示で川水がせき止められると、水位がみるみる上がり、幅2メートルの新しい水路へ水が勢いよく流れこみ、やがて埋樋へと吸い込まれていったそうです。

長年に亘(わた)り水不足に苦しみ、多大な苦労を重ねてきた村人たちのその時の喜びはいかばかりだったでしょうか。

「現代に続く感謝の気持ち」

十内圦の完成により良田に生まれ変わった、西大谷川の西側の100ヘクタールの土地の場所を表す地図。

十内圦は、300余年の間、100ヘクタールにも及ぶ田や畑をうるおし、計り知れない恵みを、村人に与えてきました。西大渕の中心部には地蔵堂があり「内記様」として五郎助、十内が祀(まつ)られているほか、昭和30年には二人の功績と苦労を称えて堤防上に「顕彰碑」が建てられていることからも、地域の人々の深い感謝の想いが伝わってきます。

昭和47年の大井川用水の完成とともに十内圦はその役目を終え、昭和48年に市(旧大須賀町)の文化財に指定されました。平成14年には埋蔵保存となり、近くには十内公園が作られました。また、平成12年に五郎助を主人公とした町民ミュージカル「風紋(ふうもん)」が市民の手によって上演されたほか、平成19年にはミュージカル「十内圦物語」がとうもんの里と十内公園で発表されています。

十内公園内にある説明書き
記念公園

ミュージカル風紋の様子
町民ミュージカル「風紋」

(この紹介は西大渕出身の郷土史家 故 鈴木誠作氏の原稿をご遺族の了承を得て再構成させていただきました。より詳細な鈴木誠作氏の原稿は、市のホームページ「郷土の偉人」でご覧いただけます。)