関ヶ原で家康が勝利、一豊は土佐20万石へ(1600)

2017年10月6日更新

1598年、秀吉が没すると、政権を掌握しようとする家康と、あくまで豊臣政権の維持を図ろうとする石田三成との間で対立が深まっていく。

荘厳な佇まいの久延寺の山門
一豊が家康をもてなした
小夜の中山・久延寺の茶室跡

1600年、会津の上杉景勝に謀反の兆候を知った家康は、上杉家の重臣・直江兼続に上洛を促す書状を送るが、拒否されたためこれに激怒。上杉家討伐の軍を起こす。このとき家康は、自らが畿内を留守にすれば三成が挙兵するであろうと読んでいたようだ。
6月、家康が大坂城を発つと、一豊は掛川領内の小夜の中山にて昼食の接待をし、以後家康に従い同行する。

 

7月19日、家康の読み通り三成が挙兵する。三成は家康指揮下に入った諸大名の大坂屋敷を厳しい監視下においた。千代のいた山内屋敷もその対象となり、千代は人質として軟禁されたのである。ほどなく家康討伐の檄文がもたらされたが、千代は一計を案じ、一豊宛にその檄文と共に密書をしたため封をすると共に、別に密文を作って笠の緒に編みこみ、一豊に届けるよう家臣に託したのである。
密命をおびた家臣がようやく一豊にたどり着いたのは24日の深夜であったという。一豊は密文に書かれた千代の指図通り、密書を封を切らず家康の下に差し出す。家康は「自ら(千代)のことは顧みず、家康公に尽くせ」と記されていた一豊宛の書状を読んで、深い感銘を受けたという。

小山宿本営にて家康を中心に軍議が開かれた様子が人形模型で作られている。
小山軍議(「千代と一豊・掛川館」より)

千代の密書によって三成の挙兵を確信した家康は翌25日、小山(現在の栃木県)宿本営に軍議を開く。この席で一豊は、掛川六万石の城を開放し、兵糧その他行軍に必要な物のすべてを提供すると申し出る。大軍の移動には大量の物資が必要であり、この申し出は家康を大いに喜ばせた。

 

その後西上した家康率いる東軍は9月15日、関ヶ原(現在の岐阜県関ヶ原町)で三成率いる西軍と対峙する。当初は兵の数で東軍を上回っていた西軍であったが、三成の戦略の不手際や諸大名の寝返りに遭い敗北する。このとき一豊は2,000人以上の軍勢を指揮していたが、相手が傍観して動かなかったため、さしたる手柄を立てることなく合戦を終えている。

関ヶ原合戦の布陣図、図右側から中央にかけてに東軍、左側にに西軍。傍観軍は下方左右に描かれている。
関ヶ原合戦の布陣(1600年9月15日)
赤は家康率いる東軍、青は三成率いる西軍、緑は内応・傍観軍を表す。
小早川秀秋の裏切りにより西軍の戦線は崩壊し、東軍の家康は天下統一を果たす。
また、この合戦では一豊はさしたる功名手柄を挙げずに終えている。

戦後、家康の論考行賞により、一豊には外様大名ながら一挙に土佐20万石という破格の待遇が与えられる。このとき家康の重臣の中からは、関ヶ原での武功が無かった一豊への措置に対し反対の声も出たようであるが、家康は「一豊の忠節は木の本、その他の衆中は枝葉の如し」と切り捨て、取り合わなかったという。一豊が合戦以前にすでに大きな功績を挙げていたことを、家康は承知していたからである。

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