山崎千三郎(やまざきせんざぶろう) その2

2011年11月25日更新

「嫁にやるなら町(掛川宿)にはやるな」

県下でもため池が最も多い掛川小笠地域は、山が低く水不足で農民はもとより掛川宿住民も生活用水に困窮し、「嫁にやるなら町にはやるな、水と洗濯で苦労する」という言い伝えがある程でした。

大井川の水を掛川へ

山崎千三郎は明治20年(1887)、大胆にも大井川から用水を引くという画期的な構想を立てました。まず貯蓄結社「厚生社」を山崎徳治郎、松本義一郎、鳥井半次郎などと結成し、「大井川疎水工事測量願」を関口県知事に提出しました。明治21年(1888)2月20日、測量に関わる大学院工学士の小山友直を中心とする測量技師たちが山崎千三郎邸に集まり計画を立て、3月1日には小夜の中山を拠点として測量に着手し、測量が進むにつれて河井重蔵、三橋四朗次、丸尾文六など地域の有力者も加わりました。
千三郎の立てた計画によると、受益面積は佐野郡(注1)2000町歩(ヘクタール)、城東郡(注2)5000町歩に及ぶ広大なものでした。
7000町歩の耕地を灌漑(かんがい)する水量と、下流で必要な水量を確保する方法が検討されました。
それは、大井川地蔵峠北の神尾より取水すれば可能であり、牛尾から牧之原トンネルを通って中東園一帯に水を引くというものでした。

  1. 南ルートは菊川より佐倉村へ
  2. 中ルートは菊川より海老名池、西方、大東、横須賀沖之須へ
  3. 北ルートは菊川より海老名池、伊達方、千羽、五明、吉岡へ送水する。

さらにこの水を利用して、

  1. 海老名滝を利用して、600馬力の発電所を造り、掛川に近代工業を興(おこ)す。
  2. 江戸時代より飲料水に困っていた掛川宿住民の用水解消を図る。
  3. 海老名池の水門で水量の調整をして、掛川宿から原野谷川を通って福田港に連絡する水運の便を図る。

というもので、計画は単に農業用水にとどまらず、中東園地域の産業発展に大いに寄与するものでした。

着物姿の女性がバケツに水をくむ様子
大正時代の水運び(掛川市中町)

注1 佐野郡・・・旧掛川市地域
注2 城東郡・・・旧小笠郡の南部地域

85年後に計画が実現

この「疎水測量記録」は明治21年2月20日より書き始められており、「厚生社」名で記録され、市役所に保管されています。
この測量実績は昭和47年(1972)に掛川幹線が完成した国家的プロジェクト、「大井川右岸用水」の工事基本計画の基となったほどの資料であり、正確で実用性のあったことが85年後に証明されました。

金九百圓也、右、金員当座預かり金にしてまさに預かり申し置き、御入用の節は、証書引き換え致す所、申し置き也。掛川銀行 
当時の厚生社出資金資料

大井川用水明治計画図と昭和の実施図

赤い線 山崎千三郎計画図
青い線 現大井川右岸用水路

山崎千三郎計画図を赤い線、現大井川右岸用水路を青い線で表わしている地図。二つの線は4カ所重なりあう部分がある。 大井川から用水を引くための山崎千三郎計画図は、大井川右岸用水川口取水口を起点に、海老名分水口を通り伊達方分水口から二股に分かれ横須賀方面や吉岡方面へ。 現大井川右岸用水路は、神尾取水口を起点に佐倉村、海老名分水口から二股に分かれ、横須賀、吉岡方面へ。
大井川用水明治計画図と昭和の実施図

明治5年(1872)福沢諭吉「学問のすすめ」刊行
明治9年(1876)中町に警察署庁舎建築
廃刀令が出る
東京大阪間の長距離馬車が県下を通る
明治13年(1880)君が代作曲、初演奏
明治17年(1884)掛川町大火270戸焼失、死者13人
明治22年(1889)東海道線掛川駅開設
明治23年(1890)第一回帝国議会開会

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